※本エッセイは すべて創作 です。登場人物・団体・出来事はすべて架空のものであり、実在のいかなる個人・組織・事案とも関係ありません。
北京で生まれた。日本に来て、もうすぐ20年になる。
日本に住む中国人が書くエッセイ、と聞くと、たぶん多くの人が想像する——「日本の素晴らしさを語る中国人」か、「日本の差別や冷たさを訴える中国人」の、どちらかを。
書きたいのは、どちらでもない。私の中に、そして多くの中国人の中に、日本に対して「四つの感情」が同時にある、という事実だ。
蔑視もある。憧れもある。尊敬もある。敵対心もある。
この四つが、ひとりの人間の胸の中で、毎日、同じ時間に、同居している。矛盾しているようで、矛盾していない。それが、隣国に対する気持ちの正体だと、20年かけて、やっと言葉にできるようになった。
22歳のとき、日本の大学院に合格した。母が、キッチンで、背中に向かって言った。
「日本人は、表は丁寧だけど、心は冷たいよ」。
母は、日本に行ったことがない。日本人と話したことも、ほとんどない。それでも、母の中には、はっきりと「日本人像」があった。
その「日本人像」は、私の中にも、すでにインストールされていた。中国で育つ子どもの頭には、いくつか共通の「日本人は〜」が書き込まれていく。
これらがどこから書き込まれたかは、説明できる。テレビでは週末ごとに抗日戦争ドラマが流れていた。小学校の教科書には、日中戦争の章があった。大人たちは「日本車はいいけど、日本人は信用するな」と何度も言った。
これは偏見だ。偏見であると自覚することと、それが消えることは、別のことだ。
日本に来て、最初の数年、私の仕事は、この書き込みを、ひとつひとつ、自分の目で検証することだった。
半分は、当たっていた。半分は、まったくの誤解だった。
問題は、この比率が、20年経ったいまも、あまり変わらないことだ。
同じ母のキッチンの、別の夕方。テレビでは、中国語吹き替えのセーラームーンが流れていた。
あのアニメが、どれほど1990年代の中国の女の子たちの心を捉えていたか、日本の人はあまり知らない。オープニングを中国語で歌った。友だちの家に行って、一緒に観た。
中学に上がる頃、海賊版のJ-POPカセットを、机の引き出しの内側に隠して持っていた。母には、見せなかった。
「日本人は冷たい」と母は言い、私たちは日本製のアニメに恋をしていた。矛盾しているのは、母ではなかった。中国の家庭の、あの夕方の空気そのものだった。
日本に行きたい、と思った原点は、学問ではなかった。アニメだった。
私の父について、ひとつだけ書いておきたい。
父は、ソニーのウォークマンを15年使っていた。1990年に買った初期型で、2005年に再生ボタンがついに戻らなくなるまで、毎朝、通勤電車の中で、使い続けていた。
「日本のモノは、すごい」。父がよく言う、もうひとつの言葉だった。
「冷たい」と「すごい」は、父の口から、同じくらいの頻度で、同じくらいの温度で出てきた。矛盾しているように聞こえる。父の中では、矛盾していなかった。「日本人」と「日本のモノ」は、完全に別の存在だったからだ。
若い頃は、それを「父の分裂」だと思っていた。
日本に来て、一度だけ、町工場を見学する機会があった。油のにおい、機械音、職人の手。そこで作られていたのは、もう大量生産されない、小さな、正確な部品だった。職人は60代だった。
その工場で、父は矛盾していなかった、とようやくわかった。職人たちの手を尊敬することと、ある歴史について怒り続けていることは、両立していい。父の中に、ずっと両立していた。
祖父は、抗日戦争を経験した世代だった。
何を経験したか、祖父は一度も、家族に話さなかった。母も、おじも、知らない。「お父さんは、戦争の話だけは、絶対にしない人だった」と母は言う。
沈黙には、二つの種類がある。忘れてしまった人の沈黙と、忘れられない人の沈黙。祖父のは、あとのほうだった、と思う。
祖父が亡くなって20年になる。祖父の沈黙は、母の世代に、そして私の世代に、何も説明されないまま、遺伝のように伝わってきた。
私が日本人と結婚したと母に告げた日、母は、しばらく黙っていた。それから言った。
「お父さんが、生きていなくて、よかった」。
祖父が生きていたら、反対しただろうか。わからない。もしかしたら、喜んだのかもしれない。沈黙の内容を、祖父は、あちら側に持ち去った。私たちに残ったのは、沈黙の重さだけだった。
敵対心、という言葉は、重い。憎しみとは違う。敵意とも違う。「忘れていない」という、もっと静かで、もっと長持ちする何かだ。
2026年のいま、この「忘れていない」は、SNSの夜に、もっと安っぽく、もっと毎日、書き換えられていく。中国語のタイムラインには、日本の右派を嘲笑する短い動画が、1日に何本も流れてくる。日本語のタイムラインには、中国人観光客のマナーを切り取った投稿が、同じくらい流れてくる。
私は、両方のタイムラインを開いている。両方に、毎日、心臓が少し縮む。
祖父の沈黙は、重たいものを預けた。SNSのざわめきは、その預かりものを、どんどん安くしていく。
この四つの感情は、順番に来るのではない。
日本人の同僚と、食事に行く。料理が美味しい(憧れ・尊敬)。同僚の気遣いが温かい(憧れ)。一方で、その気遣いに、少し距離を感じている自分がいる(蔑視、かもしれない)。店のテレビで、戦時中の話がまったく出てこない昭和懐古の番組が流れている(敵対心が小さく立ち上がる)。
15分の食事のあいだに、四つ、全部、順番もなく、切り替わる。
切り替わり続ける、というのは、苦しい。ひとつに統合できないまま、四つが並んで居続ける。四つは仲良く並んでいるのではない。ときどき、互いに衝突する。そのとき、いちばん疲れるのは、衝突の音を聞いている自分自身だ。
和解、ではない。統合、でもない。ただ、切り替わる音を、聞き続けている。
10歳の娘がいる。名前は花(ホァ)という。日本の小学校に通っている。
娘の祖父母は、日本にも、中国にもいる。日本のおじいちゃんと、中国のおばあちゃんに、毎月、オンラインで顔を見せる。日本のおじいちゃんは、娘の学芸会の写真を喜ぶ。中国のおばあちゃんは、娘の中国語の発音を、ちょっと直す。
ある日、学校で、戦争の授業があったらしい。家に帰ってきた娘が、聞いた。
「ママ、ひいおじいちゃん(中国側)は、戦争で日本と戦ったの?」
一瞬、答えに詰まった。
「戦ったよ」と答えた。
「じゃあ、パパのひいおじいちゃん(日本側)とは、敵だったの?」
「そういうことになるね」。
「でも、二人とも、もういないんでしょう?」
「うん」。
「じゃあ——もういいね」。
「もういい」とは、子どもが言ってはいけない言葉、と大人は思う。歴史は「もういい」では済まない、と。
でも、10歳の娘がその言葉を言った瞬間、少しだけ、泣きそうになった。
そして、こう思った。
「もういい」と言ってほしかったのは、たぶん、私のほうだった。
娘に、肩代わりさせた。
娘は、両方の曾祖父のことを、どちらも自分の曾祖父として、内側に抱えていく。日本と中国、両方を内側に持った人間として、育っていく。
彼女の中の「四つの感情」は、私のものとは、違う形をするだろう。もっと混じっていて、もっと処理しにくくなっているかもしれない。それは、私の手には負えない。
「平和」という言葉を、このエッセイの中で、使いたくなかった。あまりに、使われすぎている。あまりに、軽い。
でも、他に言葉が、ない。
隣人として生きる、ということは、ケンカしないことではない。文句を言い合いながら、それでも、隣に住み続ける、という選択を、あきらめない、ということだ。
中国と日本の間にあるのは、海だけではない。祖父の沈黙がある。母のキッチンのつぶやきがある。セーラームーンがある。町工場の油のにおいがある。靖国のニュースがある。SNSのざわめきがある。娘の「もういいね」がある。
この全部を、運んでいく。どれかを切り捨てることは、しない。
新しい時代の、新しい世代に、何を託したいか。
それは「和解させよう」という野望ではない。怒りを忘れないまま、尊敬もできる、という人間の可能性を、娘に、見せることだ。そして、娘がいつか、私の知らない形の四つを持つところまで、付き合うことだ。
日本人は、冷たい日もあれば、温かい日もある。
私も、だ。
——最後に、ひとつだけ、白状しておく。
日本で20年暮らしても、夫の親族の名前を、まだ、全部は覚えきれていない。
この不完全さのまま、あと何十年か、隣人として、続けていくしかない。
李 暁明