チョウノミナト(39歳・タグボートの船長17年)
霧の朝は、まず窓を見る。岸壁の向こうの防波堤の赤灯台が見えれば、その日は動ける。見えなければ、見えるまで待つ。世界がまるごとミルクの中に沈んだような朝、私たちはエンジンをかけたまま、ただ白を見つめている。
視程には基準がある。港の規則では、視程がある距離を下回ると、大型船の入港は見合わせになる。私の感覚の基準は、その赤灯台だ。会社からの距離は決まっているから、灯台が霞んで見えるか、輪郭ごと消えているかで、今日はどのくらい見えているかが分かる。船長になってからは、私の「見える/見えない」が、その朝の作業のはじまりを決める。
一隻の入港が遅れると、後ろがつかえる。沖で待つ船は、決まった順で岸壁に入る。先頭の大型船が霧で入れなければ、二番手も三番手も沖で錨を打ったまま待たされる。私たちタグも待つ。港の一日は、一隻の延期から、ドミノのように後ろへずれていく。霧は、港の時間そのものを止めてしまうのだと思う。
白い日は、レーダーの画面を見る。窓の外が真っ白でも、画面の上には輝点が散っている。あれは沖の船であり、防波堤であり、ブイだ。電子の目は、人間の目が届かないところまで見てくれる。ただ、輝点はあくまで点で、それがどんな船首をこちらへ向けているかまでは映らない。だから私は画面と窓を交互に見る。画面で位置を確かめ、窓で実物を待つ。電子の目と人間の目を、半分ずつ使うのかもしれない。
見えない日は、耳が立つ。霧笛が、白の向こうのどこかで低く鳴る。長く一回。あれは航行中の船の合図だ。方角を聞き分けようとして、私は操舵室の窓を細く開ける。音は霧の中で曲がるから、聞こえた方向と本当の方向は、少しずれる。自分の船のエンジン音さえ、岸壁に当たって返ってきて、二重に聞こえる。見える日には聞いていなかった音が、見えない日にはぜんぶ聞こえてくる。
接近は、いつも突然だ。レーダーの輝点が近いのは分かっている。それでも、白の壁の向こうから、巨大船の黒い舷側がぬっと現れる距離は、思っているよりずっと近い。気づいたときには、もう壁が真横にある。だから霧の日は、ゆっくりとしか動けない。当てる位置も角度も、晴れた日と同じはずなのに、見えないというだけで、こんなにも時間が要る。一つの操作に、晴れた日の倍の慎重さがかかる。
無線は、見えない分だけ密になる。晴れた日なら目で済むやり取りが、霧の日はぜんぶ声になる。「こちら○○丸、現在防波堤入口、対地二ノット」。パイロットが位置を言い、私が位置を言い、相手が位置を言う。見えないから、互いに自分がどこにいるかを言葉で正確に置いていく。声で港の地図を描き直しているような時間だ。誰も嘘の位置は言えない。
そして、晴れる。風が出るか、陽が昇るか、潮が変わるか。理由はその日による。白がふっとほどけて、まず赤灯台が戻り、防波堤が戻り、沖の船が戻り、港の景色がぜんぶ戻ってくる。ものの数分のことだ。さっきまで耳だけで描いていた世界が、目の前に答え合わせのように並ぶ。輝点は、本当に船だった。
霧の日の終わりは、目が芯から疲れている。見えないものを見ようとして、ずっと白を睨んでいたからだ。けれど不思議と、悪い疲れではない。見える日には腕は要らない。見えない時こそ、船長の腕が出るのだと思う。霧は私から目を奪い、その代わりに耳と読みを返してくれる。明日もまた、窓の向こうが白ければ、私はあの赤灯台を探すところから一日を始めるのだろう。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。