太宰治『人間失格』の大庭葉蔵が就活ESを書いたら(第二稿)
道化としての自己プレゼンテーション

ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)

就活ESでいちばん露骨なのは、「困難を乗り越えた経験」を四百字で書かせる欄だ。失敗の大きさより、失敗をどんな順番で並べ替え、最後をどの語で締めるかが見られている。大庭葉蔵がこの欄に向かったら、苦しかった出来事そのものより先に、読む側の眉が動かない書き方を探す。自分史を書くのではない。記入例に似せて、自分の異物感を薄める。葉蔵の手つきに合っているのは告白より調整だ。

恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。(太宰治『人間失格』)

この一文の厄介さは、反省文としても自己紹介としても収まりきらない点にある。生活の感覚がつかめない人間にとって、ESは「私を知ってください」という紙ではなく、「普通に見える文を作ってください」という課題になる。だから葉蔵は、長所欄で誇るより、短所欄で失点を消すほうがうまい。「周囲を見て動けます」「場に応じて役割を変えられます」といった就活語は、彼には借り物でなく処世そのものだ。家で、学校で、相手の気分を先に読んで身振りを決めてきた人間だからである。

そこで考え出したのは、道化でした。それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。(太宰治『人間失格』)

面接でこれが効く場面ははっきりしている。たとえば一次の「周囲からどんな人だと言われますか」という軽い質問だ。葉蔵は相手が欲しがる温度をすぐ出せる。「場を和ませるタイプです」と答え、少し笑わせ、空気をなめらかにする。だが同じ人間が最終で「意見が対立したとき、何を守りますか」と聞かれると急に弱くなる。笑わせることはできても、関係を長く持たせる約束の言葉が細るからだ。葉蔵の異様さは、他人の表情を読む速さと、生活を組み立てる力がきれいに噛み合わないところにある。

ここでESをただ冷酷な選別だと言い切ると、読みが平らになる。ESには残酷さがあるが、同時に避難所でもある。口頭では崩れる人間でも、四百字なら順序を選べる。言いよどみや愛想笑いを削って、一度だけ推敲できる。葉蔵がもし書類で先に通るなら、それは制度が彼を誤読したからだけではない。書く場だけが、彼に人間らしい文型を一時的に貸すからだ。嫌なのは、その借り物の文型が、しばしば本人の切実さより先に評価されることである。

読後に残るのは、「就活は悪い」「葉蔵は傷ついている」という整った結論ではない。こちらもまた、読まれやすい傷に言い換える手つきを知っている、という事実である。批評を書くときでさえ、むき出しの震えより、収まりのいい一文を選ぶ。その手つきの延長にESがある。葉蔵を遠くから眺めるより、四百字ぴったりに削って安心する指先のほうが、ずっと近い。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。