ドウモトキリ(34歳・石垣修復の石工12年)
石を外す前に、表の小口を斜めから照らす。光を寝かせると、平らに見えた面に影が立つ。鏨(たがね)で彫った浅い溝——刻印だ。記録を取らずに崩せば、その溝は栗石(くりいし)の山に紛れて、二度と元の石に戻らない。だから私はまず、帳面を開く。
刻印には種類がある。丸に十字、扇、桝形(ますがた)。普請を手伝った大名家ごとの符丁だ。ほかに石を切り出した石切場の印、石工の組の印もある。一つの壁に、いくつもの家の印が混ざる。徳川の天下普請では、全国の大名が石の割当を負った。だから本丸西面の四段目には、九州の家の印と、北陸の組の印が、五十センチ隣り合って積まれている。
刻印を見つけたら、手順は決まっている。まずスケールを脇に当て、正面と斜めから写真を撮る。次に拓本。和紙を刷毛で湿らせ、石に貼りつける。タンポに含ませる墨は、垂れない程度に絞る。最初の年、私は紙を濡らしすぎて破り、墨を一滴垂らして石を汚した。叩くのは、紙を指で押して跳ね返る乾きになってからだ。早すぎれば滲み、遅すぎれば写らない。風の出た屋外では、紙が浮く前に角を石へ押さえ込む。彫りの底が白く抜け、まわりが黒く締まったとき、四百年前の鏨の角度が、墨の濃淡で和紙に残る。最後に、その石が壁のどこにあったかを図面へ落とす。写真・拓本・図面、この三枚で一石の記録になる。
同定には、二つの目がいる。石工の私は、石の形と積み方と控(ひか)えの長さで、いつごろの工事かを読む。角の算木積(さんぎづ)みが整っていれば、初期の天下普請より後だ。けれど、丸に十字が九州のどの家の符丁かは、私の手では読めない。そこは学芸員の領分だ。割普請(わりぶしん)の文献に、どの面をどの家が負ったかが残っている。私は石を読み、学芸員は紙を読む。
四段目の七番に、扇の印が出た日、私は電話をかけた。「本丸西面、四段目の七番、扇です。控え、二尺八寸」。受話器の向こうで、文献をめくる音がした。学芸員は面と段の番号を控え、後日、扇がどの家の手伝い普請かを資料にして返してくる。私は印を写し取るところまで。そこから先の名前は、私の仕事ではない。境目を越えないことが、共同作業の作法だった。
刻印のある石は、壁の十のうち一つもない。残りは無印の石だ。記録に残るのは印のある石ばかりだが、印のない石を切り、運び、積んだ石工も、確かにそこにいた。私は無印の石にも、印のある石とまったく同じ手順で番号を振り、控えを測り、図面へ落とす。番号を振る手は、相手が誰の石かを知らない。知らないまま、同じ重さで札を当てる。
新しく入れ替えた石に、私たちの時代の印を彫るかどうか。現場で意見が割れた。先輩は「余計なことをするな、後世が混乱する」と言う。若手は「いつの修理か分からなくなる」と言う。私は両方分かる。四百年前の石工が私に符丁を残してくれたから、私はいま、その手紙を読めている。けれど、彫り方を間違えれば、百年後の誰かはそれを当時の符丁と取り違える。
申し送りの図面に、私はこう書いた。入れ替えた石は朱で塗り分け、補った栗石の範囲を破線で囲う。新しい石の小口には、刻印は彫らず、機械で読める小さな金属の鋲を一本、土に埋まる側へ打った。表からは見えない。けれど百年後、誰かがこの壁をほどき、控えを測るために石を抜けば、土の中からその鋲が出る。何の符丁か分からず、図面を探すだろう。図面には、令和の年と、私の組の名が、一行だけ書いてある。私が彫らなかった印は、その一行に預けた。