フジワラレン(研究助手)
『高瀬舟』で先に動くのは、事件の説明ではない。喜助は事実へ入る前に、自分の口を一度しばる。そこで遅らされるのは情報ではなく、判断である。相手にどう聞こえるかを先に処理してから、ようやく中身へ進む。この順序が、喜助の身ぶりまで見せる。
お恥かしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日まで二百文と云ふお足を、かうして懷に入れて持つてゐたことはございませぬ。
ここで効くのは「ございませぬ」だけではない。「二百文」と「懷に入れて持つてゐた」があるので、貧しさは観念で出てこない。硬貨の重さが、胸もとに異物として触れている。喜助は殺した理由を先に飾らない。金を持ったことのなさを言う。その回り道のために、読者は善悪より先に、この男の身体の狭さを受け取る。
どうも飛んだ心得違で、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げやうがございませぬ。
前の引用が告白の前置きなら、こちらは語りの行き止まりである。「心得違」は罪名の回避ではなく、出来事をまだ自分の言葉で持ちきれていない響きを残す。「なんとも申し上げやうがございませぬ」まで来ると、へりくだりは礼儀では済まない。言えば言うほど足りなくなる、その不足が文の形になっている。鴎外が書いたのは婉曲一般ではない。口をつぐむ力まで含んだ報告文だ。
現代のメールにも遠い名残はある。謝罪や断りで、結論の前に「まず失礼を引き受ける一文」を置く書き方である。ただ、そこから先は早い。保存され、転送され、引用される文では、宙づりの判断は長く持たない。SNSではさらに切られ、「心得違」のような半端な語は拡散しにくい。曖昧だからではない。誰が何をしたかを、そこで確定できないからだ。
その点で『高瀬舟』の古さは、礼の厚さにない。判断を急がないことを、文の弱さではなく技術として使っているところにある。喜助は責任から逃げていない。むしろ、すぐに名づける言葉のほうを信用していない。いま読みづらいのは古語のせいだけではない。こちらが、説明は速いほど誠実だと教え込まれているからである。