ワタナベ(65歳・元会社員)
先日、高校生の孫娘が撮った夜景の写真を見せられた。「これ、エモいっしょ」と指差す先にあったのは、工場の無機質な連なり。排気口から立ち上る白い煙が、わずかに月明かりを反射していた。私の目には、ただの工場夜景にしか映らなかった。だが、彼女の瞳は確かに何かを捉え、その言葉で言い表していた。正直、その時は「また若者言葉か」と軽く受け流してしまった。
「エモい」という言葉に、どうにも居心地の悪さを感じていた。私たちの世代が「感動した」とか「切ない」と言い表してきた感情とは、少し違うらしい。孫娘が「エモい」と言う写真には、廃れた遊園地の観覧車や、商店街のシャッターに描かれた落書きなどもあった。そこには、過去への漠然とした郷愁と、今そこにある時間の流れが奇妙に混ざり合っているように見えた。私の知らない、しかし確かな感情がそこにはある。
私にとって「しみじみ」は、もっと内省的なものだった。近所の定食屋、古びた暖簾をくぐり、カウンターで大将が黙々と焼き魚を出す。その無言のやり取りの中に、長い付き合いの友と酌み交わす酒の深さに似た、静かな充足感が胸に広がった。それは、急かすことのない時間の流れが生み出す、ゆったりとした情趣だ。言葉にするのが野暮だと感じるほどに、私の中ではっきりとした感覚として存在していた。
「味わい深い」という言葉も、また然り。妻が大切にしていた、骨董市で見つけた錆びた茶箪笥。表面の傷一つ一つに、誰かの暮らしの記憶が宿っているように思えた。一見すると古びただけの品だが、その背景にある物語や、それを手入れしてきた人の想いに触れる時、心が震えたものだ。それは刹那の感情ではなく、時間をかけて対象と向き合い、その奥底にある本質にたどり着く喜びだった。
孫娘の「エモい」と、私の「しみじみ」や「味わい深い」は、感情が生まれる速度が違う。私が時間をかけて熟成させる感情であるのに対し、「エモい」はもっと瞬発的だ。彼女のスマホ越しに見た工場の夜景は、まさにその瞬間、心が揺さぶられる直感的なものなのだろう。それは、写真や音楽といったメディアを通じて、一瞬にして共有される新しい感受性だ。「エモい」は、デジタルネイティブ世代の感情の言葉である。
かつての「感動」が個人的な深い体験に根差していたとすれば、「エモい」は共有される情景の中で生まれる、もっと広範囲な共感を呼ぶ感情なのかもしれない。
いまだに「エモい」の全てを理解したとは言い難い。しかし、孫娘がその言葉で何を伝えたいのか、その感情の源泉を探ることは、私自身の感受性を広げる行為だと今では思う。新しい言葉が生まれる背景には、新しい価値観や感情の形がある。それは、私が生きてきた時代とは異なる風景を見せてくれる。戸惑いは残るが、その価値を無視することはできない。言葉は時代を映す鏡だ。この言葉は、今を生きる若者たちの息遣いそのものだ。