エンドウサクラ(32歳・献血ルーム看護師10年)
採血の仕事を十年している。病院でも三年、針を刺してきた。病院の採血と献血の採血は、針も管も採血バッグも同じなのに、意味だけがまるで違う。病院では「あなたのため」に血を抜く。検査のため、診断のため、その人自身のために。献血では、抜いた血はその人のところには二度と戻らない。誰か知らない人のために抜く。同じ手つきで、向きだけが反対を向いている。
献血ルームというのは、考えてみれば不思議な場所だ。世の中のたいていの場所では、人は何かと引き換えに動いている。ここに来る人は、四十分かけて四百ミリリットルの血を抜かれて、帰っていく。見返りはない。善意が静かに流れていくのを、私はカウンターの内側からずっと見ている。
二〇一七年、献血ルームに移って一年目の春だった。窓の外には柔らかな光が差し込んでいて、待合スペースには穏やかな空気が満ちていた。その日、私が初めて一人で問診から採血まで担当した献血者は、六十がらみの男性だった。問診のタブレットに体調の質問が並び、彼は迷いなく指で答えていく。慣れた人だな、と思った。
血圧を測り、指先から一滴とって血色素量を調べる。男性の数値はどちらも基準を余裕で超えていた。献血カードを機械に通したとき、画面に回数が出た。三桁。百回を、とうに超えていた。私は思わず、どうして続けるんですか、と聞きそうになって、やめた。なぜやめたのか自分でもうまく言えなかったけれど、理由を聞いてはいけない気がした。それがこの場所の作法なのだと、なんとなく分かった。
四百ミリの採血バッグは、思っているより早く満ちる。シーソーのような台に載って、ゆっくり前後に揺れながら、血を抗凝固剤と混ぜていく。男性は天井を見て、特に何をするでもなく、四十分を過ごした。終わって絆創膏を巻いた腕を曲げ、「ありがとう」と言って休憩スペースへ歩いていった。お礼を言うのはこちらのはずなのに、と思った。
それから十年、私は献血に来る人をずっと見てきた。初めての高校生は、たいてい採血より問診のほうで緊張している。針を見ないように顔を背ける人、逆にじっと見つめる人。採血が終わると、みんな処遇品のコーナーで足を止める。洗剤か、お菓子か、ハンドクリームか。円グラフみたいに並んだ品物の前で、大の大人が真剣に悩んでいる。あの四十分のあとの、ささやかな楽しみ。
休憩スペースには紙パックのジュースが置いてある。りんご、オレンジ、野菜。みんな水分補給のためにと言われて素直に飲む。スマートフォンを見る人、目を閉じる人、置いてある雑誌を読む人。四十分と、そのあとの十分。その暇つぶしの流儀に、その人の人となりがうっすら出る。私はそれを見るのが、いつのまにか好きになっていた。
あの百回超えの男性が、どうして続けていたのか、私はいまも知らない。聞かなかったから。でも、たぶん聞かなくてよかったのだと思う。理由のある善意より、理由を言わない善意のほうが、この場所には似合っている。見返りのない四十分が、毎日ここで静かに繰り返されている。百回の善意を見送った一年目が、私をいまの私にしてくれたのだと思う。今日も採血バッグは、シーソーの上でゆっくり揺れている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。