エノキダタクト(51歳・種苗店主29年)
種を売って二十九年になる。袋の裏には小さな字で発芽率が刷ってある。「発芽率85%以上」。百粒蒔いて八十五粒は出る、という意味だ。客はここを読まない。読むのは私だ。種は生き物で、年と保管で力が落ちる。だから袋には、詰めた年が必ず入っている。
店の奥に木の棚がある。毎年、私はこの棚の種を抜く。ネギは一年で力が落ちる。トマトやナスは数年もつ。同じ「売れ残り」でも、抜く種と置く種がある。この判断が、種屋のいちばん奥の仕事だ。
継いだのは一九九七年、二十二歳。最初の春、私は前年の種を棚から抜こうとして、父に止められた。父は袋を取って、裏の発芽率と、詰めた年の表示を声に出した。「ネギ、おととし。これは抜く。トマト、去年。これは置く」。数字を読み上げているだけだった。種類で寿命が違うことを、父は袋の二つの数字だけで分けていた。私には、覚えるべき表が見えた。
その春、父に言われた。「種を売るな。育つ予定を売れ。だから客の話を聞け——日当たり、土、いつ蒔くか。聞かずに売るのは袋を売ってるだけだ」。私は店番をしている。客の畑を一度も見たことがない。二十九年、一度もだ。それでも、聞くことはできる。日の当たり方、土が粘るか乾くか、去年は何が駄目だったか。聞くほどに、見たことのない畑が、頭の中で数字のように積み上がっていく。
常連は品種名を覚えない。「去年のあれ、また」と言う。あれ、とは何か。私は台帳をめくる。あの人のあれは、実が細長くて甘い大根。あの人のあれは、葉が縮れるレタス。客は特徴で言い、私は品種で受け取って、袋を出す。客は名前を覚えなくていい。覚えるのは、こちらの側だ。
苦情も来る。「あんたの種、出なかったよ」。私はまず台帳と棚を確認する。その種のロットの発芽率と、詰めた年。八十八パーセント、去年詰め。種は出るはずだった。出るはずの種が出ないなら、原因は袋の外にある。だが客の前で「あなたの蒔き方だ」とは言わない。いつ蒔いたか、どのくらい土をかぶせたか、水はどうしたか。聞いていくと、たいてい向こうから顔を出す。深く埋めすぎた。寒い朝に蒔いた。責めずに聞くと、客は自分で気づいて、来年また来る。発芽率の数字は、客を責めないために確認している。
春が来ると、店先に苗の台が出る。トマト、ナス、キュウリ。入荷の日は決まっている。早く来た客には「もう少し待て、まだ霜が来る」と止める。畑は見ていない。それでも止められる。客の口から積み上がった畑が、頭の中にあるからだ。
二十九年で売った袋は数え切れない。出た種も、出なかった種も、ほとんど覚えていない。覚えているのは、抜いた種と、置いた種の分け方だ。ネギ、おととし、抜く。トマト、去年、置く。そして、見たことのない畑の数字のほうだ。