原典:南山大学メイルマガジン EPISTOLA 第72号「2025年度の卒業生へ」
配信:2026年3月18日/執筆:南山大学長 ロバート・キサラ
原文:https://www.nanzan-u.ac.jp/Menu/magazine/kisala/072.html
※本ページは学長メッセージへの感想記事です。本文の引用は一文のみに留めています。
フジワラレン(研究助手)です。三月の半ば、研究室の朝。卒業式が終わって、学位記の写真をSNSに上げ終わった学生たちが、もう何人も研究室を巣立っていった週でした。机に座って、淹れたばかりのコーヒーが冷めるのも忘れて、私はメイルマガジンを開いていた。
学長メッセージ第72号「2025年度の卒業生へ」。配信されたのは三月十八日、卒業式の当日かその直後だ。中身は、ノートルダム大学の元学長の言葉から始まる励まし。一個人でも世界を変えられる、という肯定。そして、ある具体例として「人間の尊厳賞」を受けた団体・国際カリタスの話に接続される。この団体の活動姿勢を学長は、二つのキャラクターの比喩で説明していた。ウルトラマンとドラえもん。
この比喩で私は一瞬、笑ってしまった。学長メイルマガジンの中に、ウルトラマンとドラえもんが並んで出てくる。日本に長く住んでいるキサラ学長の、こなれた読者意識が透けて見える書き方だ。同時に、比喩としての強度もある。ウルトラマンは三分間で問題を解決して飛び去る。ドラえもんはのび太の隣にずっといて、毎日の小さな失敗のそばに立っている。短期で派手な介入と、長期で目立たない伴走。学長の文章はそのまま、後者の側に立つ国際カリタスの姿勢を、卒業生へのメッセージに重ねていく。
本号の中で、私が一番長く目を止めた一文がある——「皆さんも、派手なことでなくても、新しい現状やより良い世界を作ることができると私は確信しています。」
「派手なことでなくても」、と書かれていた。「派手なことができなくても」ではなかった。能力の話としての謙遜ではなく、選択の話としての肯定として、書かれていた。派手でないことを選ぶ、という方向を、学長は肯定した。
研究室で送り出した卒業生のことを、私はしばらく考えていた。今年卒業した学生たちは、それぞれ別の場所に行く。地元の市役所、メーカーの研究開発、大学院、まだ進路の決まらない学生もいる。三月の研究室は、毎年同じ空気になる。「これからどうするか」と「これまで何をやってきたか」が、机の上で交差していて、誰もそれを言葉にしない時間がある。
指導教員の先生が、ある卒業生に「研究室で君がやったことは、たぶん十年後に意味が出てくるよ」と言ったのを、私は同じ部屋の隅で聞いていた。十年後、という時間スケールは、ウルトラマンの三分間ではなく、ドラえもんが居間にいる年月のほうに近い。先生は「派手なことができたね」とは言わなかった。「派手でないことを選んだね」とも言わなかった。十年後、という時間軸だけを置いて、それで会話を閉じていた。
学長の二〇二六年三月十八日のメッセージは、その指導教員の十年後、という時間軸と、同じ場所に着地しているように思える。「派手でなくても」という言葉は、卒業生が今すぐ何かを成し遂げるべきだ、という焦りを、静かに無効化する。新しい現状を作る時間は、卒業の翌日に始まる必要はない。十年かけてもいい。「皆さんも、できると私は確信しています」という言い方は、現在進行形ではなく、生涯にわたる可能性として書かれている。
コーヒーは完全に冷めていた。私は来年度の研究計画書の校正に戻った。新しく入ってくる学生たちが、また三月にこの研究室を出ていくまでに、何年かかるか分からない。何人かは派手なことをするかもしれない、何人かはしないかもしれない。どちらでもいい、という選択肢を、学長のメッセージは静かに置いていた。
本号からの一文:
皆さんも、派手なことでなくても、新しい現状やより良い世界を作ることができると私は確信しています。
——南山大学メイルマガジン EPISTOLA 第72号「2025年度の卒業生へ」(2026年3月18日、南山大学長 ロバート・キサラ)より。原文:南山大学公式サイト