ワタナベ(65歳、元会社員、名古屋在住)
私が名古屋の化学品商社で営業をしていた1990年代半ば、日々の連絡手段はもっぱらFAXだった。特に記憶に残るのは、大手取引先の豊田化成へ契約書を送る際の送り状だ。B5サイズのクリーム色の用紙、インクジェットではなく、熱で文字が浮かび上がる感熱紙だった。
どの送り状にも決まって「枚数:○枚(送り状含む)」と印字されていた。新人の頃、この「送り状含む」を「本体書類の枚数に加えて、さらに送り状が一枚」と誤解し、先方に余計な電話をかけたことがある。赤面するほど恥ずかしかったが、あの表記がトラブル回避のための実用的な注意書きだと、その時初めて肌で理解した。
そして一番の要は、手書きで一言添える欄だった。私はやや太めの黒ボールペンで、いつも「御査収願います」と書いた。豊田化成の担当者、山本さんの返信FAXには、インクの濃い、小さく丁寧な字で「拝受いたしました」とあった。あの字は、今でも目に焼き付いている。
一度、私の不手際で、枚数欄が「5枚(送り状含む)」のところ、本体が4枚しか入っていなかったことがあった。山本さんからすぐに電話があり、「ワタナベさん、契約書が一枚足りませんか」と。その時の冷や汗は忘れられない。あの「送り状含む」の一言は、互いの確認を促す、極めて重要な暗黙のルールだったと、私は確信している。
ある時、山本さんからの返信FAXに、通常の「拝受いたしました」の下に、小さな字で「先日のお礼、また改めて」と書き添えられていた。前の週、名古屋で一緒に食事をした後のことだ。その一筆が、無機質な感熱紙のやり取りに、確かに別の意味を持たせた。これが私の見た具体的な「人対人」の交流だ。
あの頃のFAXは、単なる紙と文字の往復ではなかった。受け取る側、送る側、それぞれの「誰か」がそこにいた。
今、私のデスクには、豊田化成の山本さんから来た最終のFAXが残っている。退職の挨拶だった。感熱紙特有の薄い文字は、少し黄ばみ、角は丸まっている。あの時代の業務は、確かにこの紙の上に存在していた。