フカクサアン(51歳・筆耕士29年)
賞状の宛名、卒業証書の氏名、結婚式の招待状の表書き、披露宴の席札。私が毛筆で書くのは、二十九年、ほとんどが人の名前だ。多くの人にとって、自分の名が毛筆で書かれるのは、一生に数えるほどしかない。
一九九七年、二十二歳の春に、書道塾の師範を辞めて筆耕の道に入った。塾では生徒に「のびのびと、自分らしく書きなさい」と教えていた。この仕事は、その逆だった。入って間もない頃、賞状の宛名を一枚書き上げて、自分でも伸びやかな、勢いのある字だと得意になって、先輩に見せた。先輩は長いことそれを見て、言った。「上手い字を書くな。間違いのない字を書け。筆耕は作品じゃない。人の名前だ」。
名前を書くのは、字を書くのとは違う。「ワタナベ」さんなら、渡辺、渡邊、渡邉。邊の字は、しんにょうの上に組む自・八・方の形と、その上の点が一つか二つかで分かれる。本人には、その一点が、生まれてから持ってきた自分そのものだ。だから依頼が来ると、私は電話をかける。「邊は、点が一つでしょうか、二つでしょうか」。辺と邉と邊を、声で確かめる。
賞状には割り付けという設計がある。鉛筆で薄く罫を引き、一枚の中の力の配分を決めていく。そして、名前が、一番大きい。本文よりも、贈り主の名よりも大きく書く。罫を引きながら、その寸法を手が覚えていった。
春には卒業証書が来る。同じ書式に、違う名前を、三百枚。一枚目と三百枚目を、同じ字にしなければならない。疲れは払いの先に出る。私が筆を置くのは、五十枚ごとではない。墨が硯の上で粘りはじめ、穂先が紙を擦るような音に変わる、その音が来たときだ。そこで磨り直す。指が音を聞き分けるようになるのに、何年もかかった。
毛筆には修正液がない。「気」の最後のはねが撥ねすぎた、それだけで一枚は捨て、最初から書き直す。書き損じた紙は、人の名前を書きかけた紙だ。畳んで、別の箱に入れる。
招待状の宛名を書いていると、まだ会ったこともない二人の婚礼が、筆先に浮かぶことがある。けれど嬉しい字、寂しい字、というものが出てしまえば、それは名前ではなくなる。景色は見える。筆は揺らさない。先輩が「人の名前だ」と言った意味は、たぶんここにあった。
来週も賞状が何枚か来る。さっき一本、電話を入れたところだ。「お名前の邊は、点が一つですか、二つですか」。受話器の向こうの人が、少し驚いてから、確かめて答えてくれる。私の仕事は、いつもこの一言から始まる。