フカミサトル(44歳・エレベーター保守点検員20年)
月次点検は、試運転で終わる。誰も乗っていないかごを、最上階から最下階まで一度通しで往復させる。一項目ずつ潰してきたチェックリストの締めくくりに、機械を一台、ひとつながりの動きとして確かめる。最後の現場はオフィスビルで、ロビーの照明はもう落ちている。点いているのは非常灯と、自動販売機の白だけだ。私はかごを最上階へ呼んで、乗らずに、操作盤の試運転スイッチを入れる。
扉が閉まり、かごは私を置いて昇っていく。私は乗り場に残って、着床を見る。かごが階に止まったとき、かごの床と乗り場の床にできる段差が、着床誤差だ。基準はプラスマイナス五ミリ。私は乗り場にしゃがんで、敷居の合わせ目に目線を落とし、指の腹を渡す。爪が引っかかれば三ミリはある。今夜の三階は、降りで四ミリ下がっていた。基準内だが、先月は二ミリだった。来月もう一度見る、と頭に印をつける。同じ階に、昇り着床と降り着床の二つの顔があって、狂うのはたいてい降りのほうだ。
扉の開閉も計る。扉が開ききって、戸開ボタンを押さずにいると、二・五秒で閉じはじめる。閉じきるまで三・八秒。開く速さ、閉じる速さ、そして閉じる途中で人が挟まれたときに戻るか。私は閉じかけの扉に腕を入れる。光電装置が遮られて、扉は一度止まり、それから開く方向へ戻る。誰も挟まれていない扉に、私が腕を入れて、戻ることを確かめる。傍に守衛さんがいれば、何をしているのかと思われる動きだろうが、たいてい守衛さんは一階にいて、ここにいるのは私だけだ。
機械室に上がる。試運転でかごが動いているあいだ、巻上機は回り続けている。軸受けの音、ブレーキのコイルが励磁を切るときの「タン」、ロープが綱車を噛む擦過音。正常な音には幅があって、二十年聞いていると、その幅から外れた音だけが耳に引っかかる。今夜の巻上機は、いつもの幅の中で回っていた。引っかからない音は、報告書には何も書かない。書くことがない、という確認のために、私は機械室まで上がる。
ピットへ降りる。昇降路のいちばん下、最下階の床のさらに下だ。梯子を七段下りて、緩衝器の油面を見る。規定の線まで来ている。ロープの末端、止め金具のクリップが緩んでいないか、指で揺すって確かめる。緩衝器のオイルダンパに油の滲みはない。頭の上では、たったいま試運転を終えたかごが最下階に止まっていて、私はその底面を下から見上げている。かごの底に、製造番号を刻んだ銘板と、誰かが昔チョークで書いた「OK 14.6」の文字が残っている。十二年前に取り替えた職人の字だ。
梯子を上がって、全階の戸開を確認する。一階ずつ、かごを呼んで、扉が開いて、誰も乗らず、二・五秒待って、また閉める。乗らない人のために扉が開いて、閉じる。それを最上階の八階から一階まで、八回繰り返す。八回とも、扉は二・五秒で閉じはじめた。昼間、この扉は一日に何百回も開く。そのすべてが、いま私が見ている八回と同じであることを、八回ぶんだけ確かめる。
かごを基準階に戻し、試運転スイッチを切る。かごの中、操作盤の脇に貼った点検済証を書き換える。次回予定の「5/12」を二重線で消し、油性ペンで今日の日付と、来月の予定を書き入れる。ペン先がステッカーの表面で一度滑って、6の頭がわずかに跳ねた。書き直すほどではない。日付を書き換えれば、この一台の今月は終わりだ。
一階の守衛室に鍵を返す。「終わりました」。守衛さんは警備日誌に時刻を書いて、「お疲れさん」と言う。外に出ると、空はまだ暗い。今夜、誰も乗らなかったかごは、八階と一階のあいだを一往復し、各階で二・五秒ずつ扉を開けた。明日の朝、最初にこのかごに乗る人は、三階の降り着床が四ミリ下がっていることも、かごの底に十二年前の字が残っていることも、知らないまま乗る。