フナコシミノリ(45歳・コインランドリー巡回管理人)
コインランドリーを五軒、一日に二度ずつ回っている。十年だ。鍵束には店の数だけ鍵が下がっていて、いちばん大きいのが硬貨回収箱の鍵。手のひらより少し小さい、真鍮の鍵だ。これを差して回すと、店じゅうの百円玉と五百円玉が、ひとつの金属の箱の中で、いっせいに重さになる。その重さを抱えて次の店へ移る。それが私の仕事のかたちだ。
コインランドリーというのは、無人で回る店である。客は自分で洗い、自分で乾かし、自分で帰っていく。管理人がいるのは、客がいない時間のほうだ。私は一日に数回、誰もいない店に来て、硬貨を回収し、糸くずのフィルターを掃除し、両替機に小銭を補充し、忘れ物を箱にしまう。誰にも会わないのに、誰かの生活の真ん中を毎日通っている、ふしぎな仕事だと思う。
転職したのは三十五歳のとき、二〇一六年の春だった。それまでの仕事のことはここには書かない。ただ、人と向き合うのに少し疲れていた、とだけ言っておく。求人票の「無人店舗の巡回管理」という文字を見たとき、ああ、人に会わなくていいのか、と思った。それくらいの動機で始めた。だから最初の数ヶ月は、ただの作業だった。硬貨を集め、埃を取り、補充する。それだけの。
変わったのは、一年目の夏の終わりごろだったと思う。三軒目の店に入ると、乾燥機が一台だけ、ごとごとと回っていた。客はいない。近くのスーパーか、車の中か、どこかで時間を潰しているのだろう。私は回収を済ませながら、その一台の音を聞いていた。回る音は、不規則なようでいて、どこか規則正しくて、空っぽの店に満ちる乾燥機の音は、まるで子守唄のようだった。誰もいない店で、誰かの洗濯物だけが、温かく回っていた。
そのときから、私は無人の店の中に、客のいた時間を読むようになった。ベンチに伏せて置かれた、読みかけの少年漫画。次に来たとき、続きの巻に変わっている。同じ人が、ここで待つあいだに少しずつ読み進めているのだ。洗剤の計量カップが、台の上にきちんと伏せて戻してある日と、放り出してある日がある。きちんとの日のほうが、たぶん心に余裕があったのだろう、と思ったりする。
忘れ物の箱には、靴下の片方がよくたまる。なぜか右ばかりのときと、左ばかりのときがある。子ども用の小さいのが入っていると、しばらく取りに来る人を待ってしまう。来ないことのほうが多い。防犯カメラの録画は、なにか問題があったときしか見ない決まりだから、その靴下を落とした人がどんな顔だったのかを、私は知らない。知らないまま、片方の靴下を眺めている。
深夜の店には、また別の生活がある。両替機の減り方が、昼間とまるで違う日がある。終電のあとに来て、まとめて何台も回していく人がいるのだ。たぶん仕事の制服を、誰にも見られない時間に洗いたい人。私は補充の小銭を入れながら、その人の夜のことを、勝手に想像する。無人の店は、客のいた時間の痕跡だけが残る場所で、私はその痕跡を読む係になっていた。
糸くずのフィルターには、その日その店を通った人たちの色が溜まる。白いタオルばかりの日は灰色っぽく、作業着の多い日は黒く、ペットの毛布が回った日は犬の色をしている。私はそれを指でつまんで捨てながら、ああ今日もいろんな人が、ここで暮らしの汚れを落としていったのだ、と思う。会わない人たちの、いちばん私的な部分に、私は毎日触れているのかもしれない。
あれから十年、私はずっと、無人の店の観察者をしている。人に会いたくなくて始めた仕事で、結局いちばん深く人を見るようになった。誰もいない店が、人をいちばん雄弁に語ること。それを教えてくれたのは、あの夏の、子守唄のような乾燥機の音だった。無人の、店番という仕事が、私をいまの私にしてくれたのだと思う。鍵束の真鍮の鍵は、今日も私の手のひらの中で、重たい。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。