ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)
正午過ぎ、オフィスはまばらな静けさ。隣島に座るコバヤシさんが、手元のタブレットから顔を上げた。「ソノダさん、明日の夜、空いてる?」声はいつもの、ごく事務的な調子だった。ソノダは、開いたままの調査資料に目を向けたまま、僅かに思考を巡らせた。実際、予定はない。むしろ週末の疲労感が抜けていないが故に、何も入れたくない気分だった。しかし「空いてます」と、反射的に答えていた。
コバヤシさんは軽く頷いた。「それならよかった。急なんだけど、日帰りで温泉に行かない?」一瞬、ソノダの喉が詰まった。温泉。正直、今の心境には重すぎた。だが、先に「空いている」と答えてしまった手前、すぐに拒絶するのは躊躇われた。「温泉ですか…」言葉を探すうちに、昨年末、同じように「空いてる?」から誘われた懇親会で、断りきれず結局二軒目まで付き合わされた記憶が蘇る。
「少し、考えさせてください」ソノダはそう返すのが精一杯だった。コバヤシさんは「もちろん」と応じつつ、ほんの僅か、口角が下がった。それが期待を削がれた反応なのか、単なる表情の癖か、ソノダには判断できなかった。一度「空いています」と口にした後で、本意でない誘いを断る難しさ。それは自分自身が招いた、小さな、しかし確かな葛藤だった。
安易な肯定が、後々どれほど不便を生むか、ソノダは身をもって知っている。
翌朝。ソノダはコバヤシさんに「やはり都合が悪くなりました」と短く伝えた。コバヤシさんは「そう」とだけ言い、それ以上は何も尋ねなかった。その簡潔な返答が、ソノダの胸に微かな棘を残した。断るという決断はしたが、この小さな傷は、避けられなかった結果だ。