ハバキリョウ(49歳・閘門の操作員25年)
数年に一度、閘室の水を抜く。ドライアップという。前後の二枚の扉を閉め切り、底のバルブから水を落として、ふだん水面下にある壁と床をあらわにする。船を昇り降りさせる水の階段から、水を取り去る数日だ。水のない閘室の底に立つと、いつも、神秘の世界に足を踏み入れたような気持ちになる。
水が引いていくのは、思っていたよりゆっくりだ。バルブを開けても、底にたまった泥が水を抱え込んでいて、一日では抜けきらない。二日目の朝、私は長靴で底に降りる。コンクリートの床には、黒い泥が一面に堆積していて、足を置くと、すねの半ばまで沈む。泥は冷たく、腐った藻と、川の鉄のような匂いがする。十五メートル下の空気は、地上とは別の種類のものに感じられた。
壁を見上げると、何十年ぶんの水位の線が、色の帯になって残っている。いちばん上が満水の線、その下に渇水の年の細い線、いちばん濃い帯は、いつもの水位の高さだ。煉瓦の壁は、線より上が灰色に乾き、線より下は緑黒く濡れている。その境目が、私の背丈のあたりにある。ここを毎日、水が行き来していたのだと思うと、不思議な感慨がこみ上げてくる。
底からは、いろいろなものが出てくる。今年は自転車が二台あった。サドルがなく、フレームに藻が巻きついて、緑の毛が生えたようになっている。サッカーボールが一つ、半分泥に埋まっていた。子どもの落とし物だろう。それから、財布が一つ。革は水を吸ってふくれ、中の札はちぎれた紙くずになっていた。誰のものかもわからない。私はそれらを、回収のバケツに入れていく。川は、こうして人の落とし物を、底に静かにためこんでいるのかもしれない。
戸当たりのゴムを点検する。扉が閉まったとき、相手の枠に当たって水を止める、長いゴムの帯だ。指で押すと、新しいうちは弾き返してくるが、古くなると、押した形にへこんだまま戻らない。ある一枚は、真ん中が裂けて、めくれていた。ここから水が漏れていたのだ。閉めても閉めても水位が下がる、と前から思っていた閘室は、このゴムが原因だったのだろう。私は裂けた箇所に印をつけ、交換の手配を書きとめる。
水の中で動く扉には、貝と藻がびっしり付いている。蝶番のまわりは、白い貝の殻が層になって盛り上がり、鉄の地肌が見えないほどだ。私は鉄のへらで、これをこそげ落とす。殻が割れる音と、藻のぬめりが、いつもの冬の作業と同じだ。けれど水を抜いた今は、水面下の全部が見える。ふだんは手の届かない床の目地まで、貝が筋になって走っている。これだけの生き物が、水の中の暗がりで、扉にしがみついて生きていたのかと、改めて驚かされる。
点検のあいだ、船は通れない。だから前もって、運航会社に通れない期間を知らせ、迂回の経路を案内する。砂利船の会社からは、別の閘門を回ると半日よけいにかかる、と返事が来た。私は申し訳ない気持ちになりながら、それでも点検は欠かせないのだ、と自分に言い聞かせる。水の下を見ておかないと、いつか水の上で事故が起きる。船を止めてでも、底を見る数日を作る。それが、水を任された者の務めなのだと思う。
最終日、水を戻す。底のバルブを閉め、注水のバルブを開けると、泥の上に水が広がり、自転車も、ゴムの傷も、水位の線も、ゆっくりと沈んでいく。さっきまで歩いていた床が、足の届かない深さに戻っていく時間を、私は扉の上から見ている。水が満ちきると、閘室はもとの、ただの水の入れ物に戻る。底に何があるかを知っているのは、もう私だけだ。
水の下を知る者が、水を任されるのだ。空になった閘室に降りて、泥の匂いを嗅ぎ、貝をこそげ、ゴムの裂け目に触れた数日が、私を操作員にしてくれている。明日からまた、私は水で満ちた閘室の、ただ表面だけを見て、扉を開け閉めしていく。けれどその底には、私の見た線と、私の落とした貝の殻と、回収しそこねた誰かの落とし物が、静かに沈んでいるのだ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。