ハバヤマトモ(47歳・移動図書館の運転手14年)
雨の日の移動図書館は、判断の連続である。空を見て、雲の動きを見て、レーダーのアプリを見て、それでも最後はステーションに着いてから決める。小雨なら開ける。本降りなら閉じる。その境目は、誰も教えてくれない。十四年かけて、私の体だけが覚えてきた。
小雨のときは、横開きの棚に雨除けテントを張って開ける。車体の横が上へ跳ね上がり、その下に支柱を立て、屋根布の四隅に杭を打つ。風がなければ十分とかからない。テントの庇の下、地面から二十センチほどの高さで、棚の下段だけが雨の跳ね返りを浴びる。だから雨の日は、下段の本を一段上へ繰り上げておく。
本降りになると、車内貸出だけに切り替える。横の棚は閉じたまま、運転席の後ろの折戸を開け、ステップを一段下ろす。人は傘を畳んで車内に上がり、書架の通路をひとり分ずつ進む。すれ違えないから、入口で一人、奥で一人、と数を決める。雨音が車の屋根を叩いて、車内はいつもより暗い。それでも来る人は、来る。
雨でも来る人は、決まっている。カッパを着て自転車で来る常連の男性。車で乗り付けて、窓を少しだけ下げ、返却の本だけを差し出して走り去る人。傘の柄に三冊を提げてくる人。顔ぶれは、晴れの日の半分にも満たない。けれど、その半分の顔は、いつも同じなのだ。雨の日に来る人がいるという事実は、なんと尊いものだろうかと思う。
暴風のときは、中止にする。前夜のうちに防災無線とウェブで知らせるが、見ない人は来てしまう。誰もいないはずの広場に、傘を裏返しながら立っている人の姿を、想像してしまう。中止の連絡は、届くべき人にこそ届かない。それが、いちばんこたえる。
濡れた本を持って、謝りに来る人がいる。借りた本を雨で濡らしてしまった、弁償します、と頭を下げる。私はいつも、こう答えることにしている。本は濡れても、読めなくなるわけではありません、と。波打ったページの間に吸水紙を挟み、上から辞書を載せて二日も置けば、たいていは元に近い形に戻る。完全に元へは戻らない。でも、その波打ちも、その本がどこかへ旅をした証なのかもしれない。
雨の日の車内は、湿気との戦いでもある。人の出入りのたびに濡れた空気が入り、書架の紙がしっとりと重くなる。小型の除湿機を運転席の足元で回し、貸出の合間に水タンクを捨てる。ワイパーが規則正しく動く音と、貸出端末が一冊ごとに鳴る電子音と。その二つの音だけが、雨の車内に響いている。
中止にした日の帰り道は、いつも気がかりだ。あのステーションに、誰か来ていなかっただろうか。防災無線を聞き逃した人が、ウェブを見ない人が、いつもの火曜だからと、傘を差して立っていなかっただろうか。確かめるすべはない。だからこそ、私はその想像から逃れられない。
雨の日の貸出冊数は、晴れの日の三割ほどだ。数字だけ見れば、開ける意味はないのかもしれない。それでも私は、空を見て、レーダーを見て、ステーションへ車を着ける。雨の日も来る人がいる限り、私はこの重い荷を積んで走るのだ。今日も、ワイパーの向こうに、いつもの広場が見えてくる。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。