青看の、文字(第二稿)
標識施工一年目、読ませたら負けだと言われた日

ハイバラケイト(43歳・道路標識の施工21年)

道路標識の施工を二十一年やってきた。「青看」と呼ぶ、行き先と距離を白い文字で書いた案内標識。作って、立てて、十年で替える。一般道の青看の文字は、行き先の地名で二十センチ。高速の緑看はもっと大きい。この数字を、車の時速から逆算して誰かが決めている。

入って一年目、出来たての青看を、俺は一文字ずつ指でなぞっていた。「名古屋 18km」。文字の縁が、台紙からきれいに切れているか。軍手の指の腹で、貼ったシートのふちを確かめていた。先輩が後ろから見て言った。「お前、いま読んだろ。標識は読むもんじゃない。見えるもんだ。読ませたら負けだ」。

文字を大きくするのは、立派に見せるためじゃない。時速六十キロなら、運転者が判断して車線を変えるまでに何秒かかり、その間に車が何メートル進むか。そこから手前何メートルで読めればいいかが出て、文字の高さが決まる。速い道ほど大きいのは、近づいてからでは間に合わないからだ。読ませる前に、わかってしまわせる。大きさは、優しさではなく、間に合わせの計算だった。

夜、青看の本当の仕事を見た。昼はただの板が、ヘッドライトを当てるとぼうっと浮かぶ。光を、来た方向へそっくり返す。表面のシートに、ガラス玉かプリズムを仕込んで、光を運転者の目だけに返している。シートには反射の強さで等級があって、大きな板には明るく返すものを使う。光るのは、ライトの主が見る角度に立っているときだけだ。歩行者には、夜の青看はただ暗い。あれは初めから、運転席のためだけに光る。

板は立てて終わりではない。台風のあと、根元から斜めに曲がった柱を見に行く。風は板の面積のぶんだけ柱を押す。倒れるかどうかは、地面に何メートル埋めたか——根入れで決まる。曲がっていたのは、地中で釣り合うはずのコンクリートを、図面より浅くした柱だった。地上で見えている一本のうしろに、見えない深さがいつも要る。

道路をまたぐ板は、夜中に付ける。昼は車が走っている。通行止めを出し、コーンを並べ、誘導の無線を握って、流れが切れる時刻を待つ。午前二時、最後の一台が抜けた合図で、かごが上がる。風でかごが横に揺れる幅は、慣れても怖い。眼下の道は空っぽで、ボルトを締める電動工具の音だけが響く。解除の時刻は決まっている。それまでに降りないと、朝の流れに飲まれる。

地名の並びも矢印の向きも、ローマ字の併記も、様式で決まっている。現場で決められるものは一つもない。最初はうるさいと思った。だが、誰が作っても同じ板になるから、初めての道でも運転者は迷わない。俺の手癖が出た標識は、いい標識ではない。出ないように作る。

十年も陽に焼けると、あれだけ光った青が白茶ける。色があせるのは、反射の寿命だ。夜に光らない板は、もう役目を果たせない。先月、自分が一年目に立てたあの「名古屋 18km」を、外しに行った。台紙からあれだけきれいに切れていた縁が、めくれて反っていた。新しい青を立て、外した古い板を軽トラに積んだ。俺はまた、一文字ずつ縁をなぞっていた。先輩はもういない。それでも、また読んでしまった。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。