ハイバラケイト(43歳・道路標識の施工21年)
標識の点検は、夜にやる。昼間に見て回っても、たいていの板は綺麗に見える。色も褪せていないように見えるし、文字も読める。だが、その「昼は綺麗」が罠なのだ。標識は夜のために光る道具で、その夜の性能は、夜にしか測れない。夜の安全を守るために、私たちは暗くなってから車を出す。
反射が落ちるのは、紫外線と年月のせいだ。表面のシートに仕込まれたガラス玉やプリズムの層が、陽に焼かれて少しずつ濁っていく。昼の光のもとでは、濁った板も新品の板も、人の目にはそう変わらない。違いが出るのは夜だ。ヘッドライトを当てたとき、新しい板はぼうっと白く立ち上がり、古い板はそこにあるのに沈んだまま浮かんでこない。昼は綺麗で、夜は暗い。その差が、寿命の正体だと思う。
だから夜間パトロールでは、点検車のヘッドライトで一枚ずつ照らして回る。助手席から見るのではなく、運転席から見る。標識は運転者のために光るのだから、確かめる目線も運転席に置く。前を走る速度で近づきながら、何メートル手前で文字が読めたか、面が均一に返しているか、端から先に暗くなっていないか。机の上の話ではなく、運転している人の見え方そのものを、運転席の高さでなぞっていく。
見え方だけでは交換は決められない。反射輝度計という測定器を板に当てて、数値を取る。単位はカンデラ毎ルクス毎平方メートル。新品でいくつ、交換の基準はいくつ、と数字で線が引いてある。「暗くなった気がする」では台帳に載せられない。気がする、ではなく、いくつ。定量にして初めて、外すか残すかが決まる。測定器の表示が基準を割れば、その板は役目を終えている。割っていなければ、まだ立っていていい。
もっとも、暗いからといって、ぜんぶが寿命とはかぎらない。排気と埃の膜で、反射が殺されているだけのこともある。幹線沿いの板は、表面に薄い油膜のような汚れをかぶっていて、それがガラス玉に入るはずの光をにじませる。雑巾で拭いてやると、死んだと思った板がもう一度光ることがある。劣化と汚れは、夜のヘッドライトのもとでは似て見える。だから測る前に、まず拭く。洗うだけで蘇る板を、寿命と取り違えてはいけない。
見えない原因は、板そのものにあるとはかぎらない。植栽の枝が張り出して、標識の角を半分隠していることがある。これは反射の問題ではない。道路管理者に剪定を依頼する案件だ。点検の記録に「劣化なし、植栽支障あり」と書く。板を替えても、枝が伸びていれば見えないままだ。原因が板の外にあるとき、私たちが直すのは板ではない。誰に何を頼むか、そこまでが点検の範囲になる。
夜が明けるころには、台帳に交換すべき板の番号が並んでいる。だが、その全部をすぐに替えられるわけではない。予算があり、本数の上限がある。だから優先順位をつける。輝度が基準を大きく割った板から、交差点や合流のように見落としが事故に直結する場所から、危ない順に番号を並べ替える。淡々と、危ない順に。感傷ではなく、数字と場所で順番が決まる。来年度に回る板には、来年度の欄に印をつけておく。
昼間の点検では、これは何も分からない。色も読めるし、傷もない。けれど夜に照らすと、昼の顔とはまるで違う板が浮かび上がる。沈んだまま光らない板、片側だけ暗い板、拭けば戻る板。夜の道の標識には、昼には見せない素顔がある。その素顔を知るのが、点検という仕事なのだ。私たちは、人が眠っている時間に、人のための見え方を、確かめて回っている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。