ハリマセイジ(55歳・塗師33年)
朝いちばんに見るのは、ゆうべ洗って伏せておいた刷毛だ。一晩で毛が締まり、先が一枚の刃のように揃っていれば、今日はいい。先がわずかに割れて束になっていれば、ゆうべの洗いが足りなかった。今日は下地までにしておく。
漆刷毛の毛は、人の髪でできている。なぜ髪かは、若い頃に一度、化繊で塗って分かった。漆は重い。刷毛に含ませて、面の上で少しずつ離していく塗料だ。化繊の毛は、含んだ漆を放さないでいて、ある一点でどっと吐いた。面の真ん中に溜まりができて、縁へ流れ、垂れた。人の髪は、惜しむように、押した分だけを離す。あの一度の垂れを見てから、私は化繊をやめた。理屈は今でも知らない。手が知っている。
刷毛は、鉛筆のように削って使う。表に出ているのは先の数分だけで、毛の根元は柄の木のなかに何年分も仕込まれている。先が減って腰が抜けたら、その先を切り、柄を小刀で削って、内に眠っていた毛を出す。ここで欲を出して深く削ると、一度にいい毛が出るが、刷毛が一年早く終わる。だから一分か二分、毛が一回分の塗りに足りるだけ削る。指が、もう少し、もう少しと止める。削るのも惜しむ仕事だ。
一日の終わりに、刷毛を洗う。漆は水では落ちない。菜種の油を含ませ、板の上で押し出して漆を吐かせ、また油を含ませ、また吐かせる。最後に、毛をひと撫でして光を流す。よく洗えた毛は、光が先まで一本の筋になって流れる。洗い足りない毛は、その筋が途中で割れる。割れていれば、もう一度油を入れる。明日の調子は、この筋で分かる。
刷毛には格がある。下ろしたての腰の堅い刷毛は、下地に使う。下地は厚く面も荒いから、毛の癖は塗りつぶされる。そこで毛が馴れ、腰が落ち着くと中塗りに上がる。いちばん枯れて素直になった毛だけが、最後に上塗りに使われる。使い切られ、削られ、また下りていく。新しい刷毛を下ろすときも、いきなり上塗りには使わない。まず削って、下地で何月か癖を取り、漆に馴らしてから、上に上げる。
この刷毛を作る職人を、刷毛師という。髪を選び、漆で固め、柄に仕込む。弟子入りした頃に何人かいた名は、いまは一人か二人になった。手元に、もう作れない人の刷毛が三本ある。一本はもう柄だけに近い。削るたびに、この三本のあとが無いことを思う。嘆いてはいない。事実として、私はこの三本を、上塗りには使わなくなった。残しておきたい毛がある。
髪は、もとは誰かの頭にあった。それが刷毛になり、漆を運び、削られて短くなり、柄だけになって終わる。洗い終えた今日の刷毛を、私は先の向きをそろえて、板に伏せる。あした、この毛がどう締まっているか。それを見てから、あしたの仕事を決める。