直しの、椀
新しく作るのとは別の仕事——使い込まれた漆器を、どこまで直すか

ハリマセイジ(55歳・塗師33年)

新しい椀を作る仕事と、直しの仕事は、別の仕事だ。新しいほうは木地から始まって、こちらの段取りで進む。直しのほうは、誰かが何十年か使った椀が、ある日とつぜん仕事場に届くところから始まる。私の段取りではなく、その椀の来し方から始まる。

椀が届くと、まず窓際に持っていく。直しの見立ては、光でやる。蛍光灯の下ではなく、北向きの窓の、やわらかい横からの光に椀をかざす。艶の褪せた場所だけが、光をはね返さずに沈んで見える。底が白茶けているのは、たいてい汁の当たる場所だ。縁が薄く欠けているのは、洗い桶でぶつけた跡だろう。光に当てると、その家の三十年の使われ方が、一つの面の上にぜんぶ出ている。

見立ての次は、相談だ。どこまで直すか。艶を戻すだけでいいのか、欠けた縁まで埋めるのか、木地の割れに手を入れるのか。直せば直すほど値は張るし、手を入れた跡も増える。私は客に、無理に全部は勧めない。使う人の暮らしに要るところだけ直せばいい。直しは、新品に戻す仕事ではないからだ。

剥がすかどうかは、下の塗りの状態で決まる。古い塗りがまだ生きていれば、その上から重ねて塗れる。下が浮いていたり、ひびが走っていたりすれば、剥がしの刃を入れて、いったん木地まで戻す。刃を当てて、ぴり、と古い塗りが起きてくる感触で、下の状態が分かる。重ねるか、剥がすか。この判断を間違えると、せっかく直した塗りが何年も経たずに浮く。

剥がしていくと、何十年前の塗師の仕事と対面することがある。下地の付け方には、その人の癖が出る。錆漆の置き方が几帳面な人。少し荒いが要所を外さない人。名も知らない先人の手つきが、剥がした面に残っている。丁寧な下地に当たると、ああ、この人はいい仕事をしたな、と思う。会ったこともない誰かと、椀の中で手が触れ合うような心地がする。物には作り手の記憶が宿っているのだと、剥がすたびに思う。

客は、椀の来歴を話してくれることが多い。「祖母の嫁入り道具で」。「亡くなった父が毎晩これで一杯やっていて」。私はその話を聞く。聞くけれど、感傷は仕事に持ち込まない。来歴は塗りの参考にはなるが、塗りそのものは、漆と木地と湿度の話だ。手が湿っていては、いい仕事はできないのと同じで、思い入れで手が湿るようではいけないのかもしれない、と思う。

納品の日。直した椀を、客はたいてい、しばらく黙って眺める。新品の艶と、直しの艶は、少し違う。新しく塗ったばかりの椀は、艶がぴんと張って、よそよそしい。直した椀は、使われてきた木地が下にいるぶん、艶がどこか落ち着いている。同じ黒でも、来し方のある黒だ。客が「ああ、これこれ」と言うのは、たぶんその落ち着きのほうを見ている。

直しを断ることもある。木地が限界の椀だ。割れが芯まで来ていたり、長年の水気で木が痩せきっていたりすると、いくら塗りを重ねても、もう保たない。そういう椀を、私は塗り直さない。「これは、このまま使ってあげてください」。直さないのも、見立てのうちだ。手を入れずに返すのが、いちばんその椀のためになることもある。

新しい椀は、これから誰かの三十年を引き受けていく。直しの椀は、すでに誰かの三十年を背負って、私のところに来る。三十三年塗ってきて、私はだんだん、直しのほうが好きになった。直しの艶こそが、漆の本当の顔なのだ。よそよそしくない、使われた黒。それを取り戻すのが、私の仕事なのだと、いまでは思う。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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