降車ボタンの、押す係(第二稿)
平日の昼、ミラーを許される数秒のこと

ハシモトケンジ(59歳・市営バス運転手36年)

平日の昼の便は、空いている。乗ってくるのは年配の客と、母子連れだ。整理券の発券機がガッと一枚吐き、それきり静かになる。私は前を見て、左右を見て、定型句を流す。「次、とまります」。走っているあいだ、私の視線は前と左右に縛られている。客のことは、ミラーに目をやれる数秒でしか見ていない。

降車ボタンは、優先席の横に、低いところにひとつだけある。大人の腰くらいの高さだ。子どもの手が、自分の足で立って届く。設計の話は知らない。ただ、あの低いひとつは、いちばん小さな客のためのボタンに、なっている。

停留所のひとつ手前。減速して、停車して、扉を開ける。乗降を確かめるために、私はミラーに目をやる。許されているのは、その数秒だ。その数秒のあいだに、私は何度も見てきた。優先席の前に、子どもが一人で立って、低いボタンに指を構えている。母親が後ろから「○○ちゃん、押す係ね」と言っている。走行中は見えない。停まってはじめて、構えた指が視界に入る。

発車して、次の停留所が近づく。母親が、いまだ、というふうにうなずく。指が下りる。ピンポン。パネルに赤が灯る。「次、とまります」。私は前を向いている。けれど停車して扉を開けるまでの数秒、ミラーの中に、母親を見上げる子どもの顔がある。何かをやり遂げた顔だ。それ以上のことは、私の席からは見えない。

うまくいかない日もある。子が指を構えているあいだに、優先席の年配の客が、自分の降りる停留所のボタンを押す。同じ停留所だ。赤が灯る。「次、とまります」。ボタンの赤は、一度灯ったら、もう一度は灯らない。二度は鳴らない。停車して扉を開けると、ミラーの中で、子どもの口が開いている。泣き声は、エンジンを切らない車内でも、運転席まで届く。母親の声も届く。「また今度ね」。

「また今度ね」。次へ流すための言葉だ。私はそれを、何百回も背中で聞いてきた。子が泣くのは、押すための赤が、もう灯ってしまったからだ。次は来る。だが、それがいつかは、わからない。私はミラーから目を戻す。発車の確認がある。子どもの泣き顔を、それ以上は見ていられない。見ていられないのは、薄情だからではない。私はバスを動かさなければならず、ボタンには、手が届かないからだ。

ピンポンの音は、車両で違う。古い車は、こもった低いピンポン。新しい車は、澄んだ高いピンポン。整理券の発券音、運賃箱が小銭を呑む音、扉のプシュー。子どもが待っているのは、そのうちのひとつ、自分の指が鳴らす一音だけだ。先に押されて灯ってしまった赤は、子どもの指の下で、暗いままだ。押せなかったボタンのランプは、灯らないことで、灯ったどれよりもよく見える。私は前を向く。バスは次の停留所へ向かう。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。