降車ボタンの、押す係
平日の昼、ミラー越しの小さな儀式

ハシモトケンジ(59歳・市営バス運転手36年)

平日の昼の便は、空いている。朝のラッシュが引けて、夕方の下校がはじまるまでの数時間、私のバスに乗ってくるのは年配の客と、母子連れだ。窓の外には柔らかな午後の光が差していて、車内にはどこか時間が止まったような静けさが満ちていた。私はその静けさの中で、定型句を流し続ける。「次、とまります」。

降車ボタンには、赤いランプがついている。誰かが押すと、運転席のパネルにも同じ赤が灯る。「次、とまります」という自動音声は、そのあとに流れる。三十六年やってきて、私はこのボタンが、母子連れの幼児にとってただのボタンではないことを知っている。それは儀式なのだ。押す係を任されるかどうかで、その子のその日が決まる。

ボタンは、優先席の横の低いところに、ひとつだけある。大人の腰くらいの高さだ。子どもには、ちょうどいい。親が子を抱き上げなくても、自分の足で立って、自分の手で届く。設計した人がそこまで考えたのかは知らないが、あの低いひとつは、結果として、いちばん小さな客のためのボタンになっている。

母親が言う。「○○ちゃん、ボタン押す係ね」。子どもの背筋が伸びる。降りる停留所のひとつ手前から、その子は低いボタンの前に立って、指を構える。私はミラー越しに、その小さな指がボタンの一センチ手前で震えているのを、ずっと見ている。安全確認の合間に、私はその指だけを追っていた。やがて「次、とまります」が必要になる停留所が近づき、母親がうなずく。指が下りる。ピンポン。赤が灯る。子どもが振り返って母親を見上げる、あの誇らしい顔。

けれど、いつもうまくいくとは限らない。先に、別の客が押してしまうことがある。優先席の年配の女性が、何の気なしに、自分の降りる停留所のボタンを押す。赤が灯る。「次、とまります」。構えていた子の指が、行き場をなくす。押すべきボタンの赤は、もう灯ってしまっている。同じ停留所だ。二度は鳴らない。子どもの顔がくしゃっと歪んで、車内に泣き声が響く。母親は困った顔で、背中をさする。「また今度ね」。

「また今度ね」。私はこの言葉を、三十六年で何百回聞いたかわからない。母親の口から出るとき、それは謝罪でも慰めでもなく、ただ次へ流すための言葉だ。けれど子どもにとって、今度はとても遠い。次にこのバスに乗るのがいつで、次に押す係を任されるのがいつなのか、子どもには時間の見当がつかない。だから泣く。私はミラーの中で、その泣き顔を見ている。見ているしかない。私は運転席にいて、ボタンには手が届かないのだから。

ピンポンの音は、機種によって違う。古い車両は、少しこもった、低いピンポン。新しい車両は、澄んだ、高いピンポン。整理券を取る音、運賃箱が小銭を呑む音、扉が開くプシューという音——車内にはいろんな音があるが、子どもが待っているのは、あのピンポンひとつだけだ。その子の耳には、ほかの音はきっと入っていない。自分の指が鳴らす、その一音を待っている。

私は思う。三十六年、ミラー越しに見てきたあの小さな指が押すボタンこそ、この仕事の意味なのだ。定型句を流し、安全に運び、ただ車庫へ帰る。その繰り返しの中で、子どもの誇らしい顔と、押せなかった日の泣き顔だけが、私の三十六年に色をつけてくれた。バスはただの移動の手段ではない。誰かにとっては、人生で最初に任された係の、舞台なのだ。午後の光の中を、今日も私のバスは走っていく。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。