ヘグリシオン(36歳・海苔漁師14年)
海苔は、摘んだだけでは売れない。海の畑で育てた一年が、加工場で板になり、入札会で値になる。種付けから始まった秋の仕事が、冬の終わりに、数字へと姿を変えていく。一年の苦労が報われるのは、この日なのだろう。私はその日を、もう十四回見てきた。
摘んだ海苔は、その日のうちに加工場へ運ぶ。洗って刻み、水で薄めて簀の上に漉き、乾燥機で夜通し乾かす。摘採から乾海苔まで一気にやらないと色が落ちるので、加工は夜の仕事だ。乾燥機が回りはじめると、湿った磯の匂いが熱で乾いた香ばしい匂いに変わる。朝、機械から出てくるころには、海苔は黒い板になっている。
出品の前に、自分の海苔を自分で格付けする。一年ぶんを等級ごとに分けて箱に詰め、その箱から一帖を抜いて見本にする。十枚で一帖、その一帖が、後ろに積んだ何千枚の全量を代表する。色の濃いものは上の箱へ、薄く緑がかったものは下の箱へ。自分の海苔に自分で値の見当をつける作業は、いつまでたっても胃が痛い。
入札会場は、漁協の広い土間だ。長机に番号を振った見本がずらりと並ぶ。問屋の検査員が回ってきて、見本の一帖を窓の光にかざし、火で軽く炙り、端をちぎって噛む。色、艶、炙ったときの緑の出方、口の中での溶け方。一枚を見て全量を値踏みするのに、かける時間はほんの数秒だ。一年が、その数秒の手の中にある。
昼を過ぎると、壁に値段が貼り出される。番号と金額が並んだ細長い紙だ。自分の番号を目で探し、金額を確かめる。隣の家の漁師も、同じように壁の前で自分の番号を探している。目が合うと、どちらからともなく軽く頭を下げる。良くても悪くても、この目礼だけは毎年変わらない。値段は、その年の海の通信簿のようなものなのかもしれない。
会が終わると、私はいつも高値の見本を見に行く。一番高く付いた家の一帖は、まだ机に残っている。手に取ると、自分のものより黒く、艶があり、薄くて、口に入れるとすっと溶けた。同じ海の、同じ冬の海苔なのに、明らかに違う。負けた理由は、口に入れればだいたい分かる。色か、艶か、口どけか。見本は、負けた理由まで正直に教えてくれる。
浜には共同の乾燥場がある。昔は各家が小さな乾燥機を持っていたが、いまは何軒かで大きな機械を共同で使う。私の祖父の代は天日で干していたと聞く。簀を並べて天日に干す板海苔だ。父の代で機械になり、私の代で共同になった。同じ浜で、乾かし方だけが世代ごとに変わってきた。それでも見本の一帖を抜く手つきは、祖父も父も私も、たぶん同じだ。
一番海苔、という言葉がある。その年いちばん最初に摘んだ海苔のことだ。柔らかく、香りが高く、入札でも特別な値が付く。初摘みの一帖が高く売れると、その冬の海が良い冬になる気がする。一年の最初の海苔に高い値が付くのは、これから始まる冬への、海からの励ましのようなものだと、私は勝手に思っている。
結局のところ、入札の日に並ぶのは海苔ではない。一年の海の機嫌が、一帖の見本に凝縮して並んでいるのだ。見本の一帖が、一年なのだ。私は今年も自分の番号を壁に探し、高値の見本を口に含んで、来年の海のことを考える。一枚に一年を込めて売るのが、海苔屋という仕事なのだと思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。