ヒビノカオル(38歳・市民会館の舞台係16年)
発表会には、失敗してもいい空気がある。子どもが途中で止まれば、客席はかえって温かくなる。けれど市の式典は違う。成人式、表彰式、追悼式——あれは失敗が許されない種類の催しだ。窓の外はいつも晴れていて、ホールには張りつめた静けさが満ちている。私は十六年、その緊張を、袖の暗がりで聞いてきた。
式典の進行表は、発表会のそれとはまるで別物だ。発表会の進行表は「演目」と「およその分」でできているが、式典の進行表は分刻みだ。「九時五八分 国旗・市旗掲揚」「一〇時〇〇分 開式の辞」「一〇時〇二分 市長式辞」。秒の手前まで割ってある。私はその紙を操作盤の脇にテープで留め、手元灯の緑がかった光の下で、行を一本ずつ指で追っていく。
けれど、その分刻みが守られたためしは一度もない。押すのは、たいてい来賓の挨拶だ。進行表に「五分」と書いてあっても、五分で終わった来賓を私は見たことがない。マイクの前に立った人の話は、なぜか必ず延びる。袖で進行表を見ながら、私は心の中で、行を一本ずつ後ろへずらしていく。
席次は、政治だ。来賓席の並びは、肩書きと年功と、その年の市の事情でできている。本番の直前に、席次表が一枚、差し替わることがある。誰かが一つ前に出て、誰かが一つ下がる。理由は私には知らされない。私はただ、新しい席次表に合わせて、めくり台の名札の順を入れ替えるだけだ。
国旗と市旗の掲揚にも、作法がある。向かって左が上手で、そこに国旗が来る。市旗はその次だ。前日、私は二本の旗を畳む。national flag のほうから先に、決まった手順で三角に折り、汚さないように白手袋で扱う。畳まれた旗は、思っていたよりずっと重い。式典の重さとは、たぶんこういう重さのことだ。
演台にも、決まりごとがある。マイクの高さは、登壇する人の背に合わせて前もって決めておく。水の入ったコップは演台の右奥、手の届くが視界に入らない位置に置く。表彰式では、表彰状を載せた盆の持ち方をリハーサルする。盆は胸の高さで水平に、両手で。受け取る側の動線、渡す側の半歩の踏み出し。一連の動作を、本番の前に何度も繰り返す。
成人式の袖からは、新成人の足元がよく見える。真新しいスーツや振袖の下に、スニーカーが覗いていることがある。壇上に上がる短い距離だけ、彼らは慣れない靴を脱いで、履き慣れたほうで歩く。誰も気づかない。私だけが、袖の暗がりからそれを見ている。式典の正装の、いちばん下のところに、その人の素のままが残っている。
追悼式の黙祷の一分間、舞台係がすることは、何もない。正確に言えば、何もしないことが仕事だ。黙祷の始まりと終わりに、私はブザーを一度ずつ押す。その合間の一分間、私は操作盤の前で、ただ動かずにいる。物音を立てないことだけが、その一分間の私の務めだ。ホール全体が止まっている。その静けさを守るために、私は息さえ浅くする。
式典の拍手は、発表会の拍手と音が違う。発表会の拍手はばらばらで、長く、温かい。式典の拍手は、揃っていて、短い。始まりも終わりも、まるで申し合わせたように一斉だ。袖でその音を聞くたびに、私は思う。式典の拍手の、あの揃って短い音こそが、この仕事の答えなのだ、と。失敗が許されない場を、失敗なく終えたことの、合図なのだ。
十六年で何度ブザーを押したか、数えていない。覚えているのは、分刻みの進行表の、守られなかった「五分」。差し替わった席次表。三角に畳んだ旗の重さ。正装の下のスニーカー。黙祷の一分間の、自分の浅い息。そして、揃って短い拍手。それでよかったのだと思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。