ヒビヤタクマ(44歳・歯科技工士22年)
歯を作って二十二年になる。だが、ここ数年で作り方が変わった。蝋を彫り、石膏を流し、金属を鋳込む——その手順が、画面とマウスと、削り出しの機械に置き換わりつつある。手仕事の魂が失われていくようで、私はときどき寂しくなる。
昔は、模型が届いた。宅配便の箱を開けると、緩衝材にくるまれた石膏の塊が入っていて、上下の歯型がゴムバンドで留められていた。手に取ると、ずしりと重い。その重さが、私の机の上にある仕事の量だった。いまは、石膏の届かない症例が増えた。医院の口腔内スキャナーが患者の口の中をなぞり、その場でデータになって、ネット越しに私のパソコンに届く。箱は来ない。朝、パソコンを開くと、フォルダに新しいファイルが増えている。
CADの設計画面で、私は歯を作る。マウスを動かすと、画面の中の歯がぐるりと回る。裏から、上から、噛み合う側から——手では一度に見られなかった面が、ひと撫でで全部見られる。便利だと思う。便利だと思うが、画面の中の歯には重さがない。蝋の歯なら、彫りすぎれば指先が軽くなったのが分かる。マウスの先の歯は、いくら削っても指は何も感じない。当たっているか高いかを、私は数字と色で読むようになった。
設計が終わると、ミリングマシンにかける。ジルコニアの白いブロックが機械に固定され、細いバーが回りながら、ブロックの中から歯を削り出していく。粉が飛び、水がかかり、十数分で歯の形が現れる。昔はここが窯であり、鋳造だった。蝋で作った歯を埋没材で包み、焼いて蝋を飛ばし、溶かした金属を流し込む——あの火と煙の工程が、まるごと削り出しに置き換わった。機械は文句を言わない。同じ精度で、何度でも削る。
それでも、手の残る領分がある。削り出したばかりのジルコニアは、まだ白くて硬いだけの塊だ。ここから先は、人の手でしかできない。咬合器に戻して当たりを見て、高い点を削る。研磨のバフで角を取り、艶を出す。そして色付けだ。ステインという、歯の色の絵具を、細い筆で塗っていく。根元を濃く、切端を透けさせる。窯で焼き付けて発色させる。機械は形までしか作れない。最後のひと筆は、いつも私の指の上にある。
所内では、世代でデジタルとの距離が違う。六十近いベテランは、スキャナーのデータをまず石膏に出力してから触る。画面の上では信じられないらしい。二十代の若手は、逆に石膏を触ったことがほとんどない。最初からマウスで歯を作ってきた世代だ。私は四十四で、ちょうど両方を知っている。蝋も彫れるし、マウスでも作れる。どちらが本物かと若手に聞かれても、私はうまく答えられない。両方とも、会えない誰かの口に収まる歯であることに変わりはないからだ。
データの時代になって、変わったことがもう一つある。作ったものが、保存される。昔は、納めた歯は私の手元から消えた。割れて戻ってくれば、また一から作り直すしかなかった。いまは、設計データがサーバーに残る。同じ患者の歯が割れても、ファイルを開けば、寸分たがわぬ同じ歯がもう一度削り出せる。再現できる。それは確かに便利で、患者のためにもなる。けれど、二度と同じものは作れなかったあの頃の、一回きりの緊張も、データと一緒にどこかへ消えた気がする。
画面の中の歯と、指の上の歯。同じ歯を作っているのに、どこかが違う。マウスで回した歯の、回らない側の面を、私はもう想像しなくなった。手の中にあった重さの記憶だけが、まだ指に残っている。これは、同じで違う仕事なのだ。手の仕事と画面の仕事は、同じ歯を作りながら、違う場所で私を試している。会えない人の口の中を読むことだけは、石膏でもデータでも、何も変わらないのだろう。
この第一稿には、辛口の自己レビューを付した。あわせて読まれたい。
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