ヒジカタアン(53歳・クリーニングのシミ抜き職人31年)
戸の開け方で分かる。普段の客はゆっくり入ってくる。礼服を抱えた人は両手がふさがっているから、肩で戸を押すように入ってくる。台の前に置かれるのは黒い一式で、袋にも入っていない。最初の一言は決まっている。「明日まで、間に合いますか」。
慶事の礼服なら、客は日取りを言う。来週の披露宴で、と。黒い一式を「明日まで」と置く人は、日取りを言わない。言わないことが答えだ。だから聞かない。受け取って、広げて、状態を見る。それだけだ。
箪笥に何年もしまわれていた喪服は、広げると匂いが立つ。防虫剤の、甘くて鼻の奥を刺す匂い。畳み皺の山だけ繊維が起きて、光を返す。肩から袖にかけて、折り目が白い筋になって走っている。襟の内側に横一文字の埃の線。引き出しの縁が当たっていた高さだ。脇の下を裏返すと、灰色がかった黄ばみ。汗が酸化して、何年もかけて焼けたものだった。
カビは、こすってはいけない。襟や肩に散った白い粉を、乾いた布で表面だけ払う。こすれば繊維の奥に押し込んでしまう。払って、当て布をして、蒸気を遠くから当てる。根の残ったものは追わない。黒は、薄くなったのが目立つ色だ。落としすぎれば、そこだけ灰になる。
右の内ポケットに、数珠袋が入っていた。前の葬儀のまま閉じられていたポケットだ。指でつまんで出すと、袋の口が緩んでいて、黒い珠の頭が一つ、覗いた。私は手を止めた。それ以上は出さない。台の脇に、口を伏せて置く。香典袋の表書きだけのメモ、会葬御礼の小さな塩の袋も、同じように並べる。引き渡しのとき、「これが入っていました」とだけ言って返す。中は読まない。前の弔いのものを、こちらの都合で開くことはしない。
礼服は、体のほうが変わっている。前ボタンの位置がずれ、肩の縫い目が外に落ちている。一日では直せない。だから直すとは言わない。中のボタンを一つ留めずにおけば前は合う。ベルトの穴を一つ手前で締めて、上着で隠す。それを伝えるだけだ。
急ぎは、列を飛ばす。朝に受けたら、まず他の客の伝票を台の端へどけて、喪服を窓際の三番のハンガーに掛ける。表を返して風を通す。防虫剤の匂いは、薬剤より先に風で抜く。その間に、たまった検品を済ませる。昼、匂いの引いた一式に蒸気を当て、脇の黄ばみに綿棒を入れる。午後、肩の白い筋を当て布で伸ばし、プレスをかける。乾きの時間だけは縮められないから、それを後ろに空けるために、縮められる工程を全部前に詰める。夕方五時に間に合わせる逆算だった。
「間に合いますか」と聞かれて、「大丈夫です」とは言わない。できない約束はしない。「匂いは抜きます。肩の線は伸ばします。脇の黄ばみは、ここまでなら薄くなります。五時にお渡しできます」。できることだけを、できる順に並べて言う。落ちないものまで請け合えば、明日の朝、葬儀の場で困るのは客のほうだ。
夕方五時、乾いた喪服を畳む。台の脇の数珠袋とメモと塩の袋を、内ポケットに戻して、口を留める。袋に入れて、明日の朝に着る人の手に渡す。「お預かりしたものは、全部入れてあります」。客は受け取って、軽く頭を下げて、肩で戸を押して出ていく。台の上には、次の客の伝票が戻っている。