マウスピースの、歯の跡(第二稿)
他人のものを試奏できない、いちばん個人的な部品について

ヒメノカナ(29歳・楽器店リペア工房5年)

マウスピースは、楽器の中でいちばん持ち主に近い部品だ。唇が触れ、舌が触れ、上の歯が乗る。だから他人のものは試奏できない。リードを替えても、消毒をしても、人の口がそこに置いていったものは消えない。試奏室では作業の前に必ずアルコールで拭くが、拭けるのは表面だけで、エボナイトに沈んだ凹みまでは拭けない。

修理で入ってきたクラリネットのマウスピースを、作業灯に当てて回す。上の歯が乗るビーク――斜めに削がれた背中の面――に、凹みが見えた。前歯二本ぶんの跡が、左へ寄って重なっている。咥え直すたびに少しずつ場所がずれて、左側だけが深く沈んでいた。硬質ゴムは樹脂ほど素直に戻らないから、跡の縁がつやを失って、白く擦れている。

リガチャー――リードを留める金具を外すと、締め跡も左だけが強かった。左の歯で噛みしめ、顎を左へ寄せて吹く人だ。凹みにノギスを当てる。左が右より、コンマ三ミリ深い。たぶん五年か十年か、この人がそうやって音を押し出してきたぶんの、三ミリの十分の三だった。マウスピースパッチ――上の歯を守る薄いシールを貼っても、長く吹けば結局その上から同じ場所が沈む。癖は、シールの厚みを越える。

音のことだけ考えれば、新しいマウスピースに替えたほうがいい。偏った凹みは息の流れをわずかに乱して、レスポンスを鈍らせる。だが持ち主には、この凹みが何年もかけて馴染んだ自分の形だ。替えれば音は整う。けれど吹いた瞬間に、自分のじゃない、と感じるだろう。いちばん吹きやすいのは、いちばん馴染んだ凹みなのだから。

見積書を書く。リガチャーの調整。試奏室の消毒。リードが合っていない気がするので、相談できる先を一軒。そこまで書いて、ペンを止めた。マウスピースのことは書かなかった。歯の跡は奏法だ。どう噛むかは、この人と、この人の先生のあいだのことで、見積書に書く欄ではない。私は息の出る状態に戻すところまでの人で、その一行を空けておくことが、線の引き方だった。

返す前に、自分のリードを一枚あてがって音を出した。軽く咥えたつもりが、左の凹みに上の歯が落ちて、口の中で歯が斜めに滑った。慌てて咥え直す。今度は右が浮いて、息が左の隙間から抜けていき、ロングトーンの真ん中で音がかすれた。他人の歯の跡は、私の歯を受け止めてくれない。出させてあげることはできても、私はここでは音を出せなかった。

五年で、タンポは数え切れないほど替えた。コルクも、リガチャーも替える。けれどマウスピースの歯の跡は、めったに替えない。見れば、力みも、顎の傾きも、咥え直す癖も、全部読める。読めたことを、私は見積書に書かなかった。空けておいた一行のことを、納品のあとも少し考える。あの三ミリの十分の三を、本人はまだ知らないままだろうか。それとも、とっくに先生に言われていて、それでも左で噛むのをやめられずにいるのだろうか。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。