視程の、目標物(第二稿)
どこまで見えるか、を町の地図で測る

ヒナタアズサ(26歳・気象台の観測補助6年)

視程は、どこまで見えるか、という観測だ。視程計という装置はある。空気中の散乱を測って数字を出す。けれど装置が見ているのは、台のすぐ脇の、数メートルの空気だけだ。向こうの山が見えるかどうかは、その数メートルには書いていない。だから視程は、距離の分かっている目標物を、近いものから遠いものへ順に確かめて決める。煙突が見えれば一・五キロ以上、鉄塔まで見えれば四キロ以上。見える目標物の、いちばん遠いところで視程が決まる。

私の台には、目標物のリストがある。歴代の観測者が作って引き継いできた。対岸の煙突が一・五キロ、市役所の鉄塔が四キロ、団地の給水塔が八キロ、いちばん遠いのが、晴れた日にだけ稜線の出る山で十二キロ。リストの余白には、過去に消した目標物の名前が、二重線で残っている。誰かが見て、もう見えなくなって、引いた線だ。

二年目に、四キロの鉄塔が撤去された。ある朝、屋上で北を見たら、いつもそこにあるはずの鉄塔がなかった。視程四キロの基準が、町から消えた。私たちはリストを改定して、少し手前のマンションの屋上を三・五キロに据え直し、鉄塔の行に二重線を引いた。逆に、新しいビルが建って山が隠れることもある。リストの改定は、この町が変わっていく記録だ。私が引く二重線も、いつか誰かに引き継がれる。

黄砂の朝、視程計は四キロと出していた。空全体がうすい黄土色に均されて、山が消え、給水塔が消えていた。けれど北を見ると、撤去前の鉄塔の代わりの、三・五キロのマンションが、輪郭だけまだ見えた。装置は四キロ、私の目は三・五。私は自分の目を採って、視程三・五キロと書いた。装置は台の脇の空気を測る。私は町の向こうを見る。同じ空気の、ちがう場所を測っているのだから、ずれて当たり前だ。ずれたとき、野帳に残るのは私の数字のほうだ。

雨上がりの夕方には、逆のことが起きる。雨が塵を洗ったあと、普段は霞む十二キロの山が、山肌のひだまで見える。リストの目標物が全部見えて、山の、さらに向こうまで見えているのに、それを測る目標物がない。見えているのに、数字にできない。私は野帳に、視程二十キロ以上、と書く。以上、という二文字は、リストが尽きたしるしだ。

夜は、目標物が見えない。だから明るさで読み替える。台から南に、団地の窓明かりの下を、橙色の街灯が一列に並んでいる。手前から数えて、四つめまでは芯がはっきり点に見える。五つめからは丸くにじむ。にじみはじめる街灯の番号で、その夜の視程を決めていた。ある霧の出かけた夜は、三つめまでしか点に見えず、私は視程二キロと書いた。昼は距離で測るものを、夜は街灯の番号で測る。同じ町を、ちがう物差しで測っている。

霧の壁が来る瞬間が、いちばん速い。海のほうから視程が縮む。さっきまで八キロの給水塔が見えていたのに、数分で対岸の煙突すら方角だけになる。目標物が、遠いものから近いものへ、ドミノで消えていく。そういうとき、私は野帳に数字を矢印でつなぐ。八、五、二、一。縮んでいく速さそのものが、記録になる。撤去された鉄塔の行を見ながら、消えるのは目標物のほうばかりではないな、と思う。今日は空気のほうが、目標物を消しにくる。

友人と歩いていて、相手が「今日は遠くまで見えるね」と言う。私はつい「十五キロくらい」と答えて、変な顔をされる。相手にとって、遠くまで見えるのは気分だ。私にとっては、煙突、マンション、給水塔、山、と順に確かめていった結果の、キロ数だ。今日も三時間後に、私は屋上に出る。近いものから遠いものへ、目をやる。どこまで見えるかで、リストのどこに鉛筆を止めるかが決まる。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。