ヒロセタクマ(47歳・灯油配達員21年)
初雪の朝は、まだ電話が鳴らない。机には、夏のあいだ空にしておいたタンクのリストがある。それを開く季節が来た、ということだ。八時を過ぎるまで、私はそれを眺めている。鳴らない電話のほうが、よほど落ち着かない。
八時を過ぎると、一本が鳴る。受話器を置く前に、二本目が鳴る。それを合図にしたように、三本目が鳴る。先週まで「まだ大丈夫」と言っていた家が、初雪を見た途端に、いっせいに動く。予報は先週から寒くなると言っていた。けれど人は、予報では財布を開かない。窓に雪が積もって、初めて手が電話に伸びる。寒さは、頭ではなく、体で来る。それを二十一年、毎年この日に見ている。
注文を受けながら、私は机の地図を組み替える。決まったルートはあるが、初雪の日はその通りには回れない。「今日中に」が重なって、地区をまたいで点が散る。私はまず坂の上の家を午前に入れる。午後になると雪が締まって、ローリーの重い車体では登り切れない。日が翳れば、わだちが凍る。だから登りは、雪がまだ柔らかい朝のうちだ。近い順ではなく、登れる順に結び直す。シーズン最初の一日は、回る前の机の上で、半分が決まる。
新規の注文も混じる。引っ越してきた家、去年まで別の店だった家。住所を復唱して、目印を訊く。「角の郵便ポストの先です」。地図にない一本道を、声から拾う。電話の向こうは、たいてい少し急いでいる。初めての雪に、急かされている。
最初の一軒は、夏のあいだ空にしておいたタンクだ。コックをひねっても、すぐには出てこない。配管に空気が噛んでいる。ポンプを送ると、ノズルの先がボコッと鳴って、泡まじりの灯油がひと吹き、勢いよく噴く。私はその一吹きを浴びないよう、ノズルを缶の縁に伏せて握っている。シュッと空気が抜けきって、それから重い液が、太く、まっすぐ流れ始める。この一拍で、夏のあいだ眠っていた配管に、また灯油が通う。冬が、ここから始まる。
回っていると、去年と同じ家の、去年と違う事情が、量に出る。去年より多く頼む家がある。玄関に、小さな長靴が二足、増えている。逆に、去年の半分でいい、という家もある。理由は訊かない。ゲージの位置と、頼む量と、玄関に並ぶ靴の数で、だいたいのことは分かる。私は伝票に量を書く。書きながら、去年との差を、頭に残す。前の冬に覚えた減り方が、もう違う家になっている。
どの家でも、同じ言葉を聞く。「もっと早く頼めばよかった」。私は「いえ、間に合いますよ」と笑って、ホースを引く。間に合わせるのが私の仕事だ。来年もこの人は、初雪の日に、また同じことを言う。私はそれに、また同じ返事をする。
夕方、最後の一軒を終えて、雪道をローリーで戻る。今年初めての雪道だ。ハンドルを切る加減、ブレーキを踏む深さ、坂で速度を落とす間合い——夏に忘れていたものが、最初の一回りで戻ってくる。頭で思い出すのではない。手と足が、勝手に冬の運転を始めている。事務所に戻ると、留守番電話のランプが、まだ点滅している。明日の分だ。朝には鳴らなかった電話が、いまも町のどこかで鳴っている。私は外の雪を見て、ストーブの前に座る。点滅は、しばらく止まない。