ホズミナツキ(31歳・内航船の司厨9年)
船の台所で飯を作って九年になる。陸の定食屋から内航タンカーに移ったのが二〇一七年、二十二のときだった。乗組員六人の三食を、ひとりで作る。最初の航海で覚えたのは、包丁より先に足だった。床が傾くと、味噌汁の鍋が三センチ滑る。鍋を追って、足が勝手に踏ん張る。
陸で十年やっても、船では一年目だった。最初の時化で、固定し忘れた寸胴が一度だけ滑り、出汁が半分、足元の床にこぼれた。熱くはなかった。ただ、六人分の昼が、床に広がっていた。陸では、こぼしてもまた作ればいい。沖では、補給港まで、こぼした分は戻ってこない。
先任の司厨長は無口な人だった。航海三日目の夜、洗い物をしている私の背中に、ぽつりと言った。「飯は航海の半分だ。沖で楽しみは飯しかない。手を抜いた日は船の空気で分かる」。それだけだった。逃げ場のない船の中で、私の作る飯だけが、六人の一日に決まった楽しみを置く。
時化の日には、時化の日の手がある。寸胴は濡れ布巾を敷いて、滑り止めの枠で囲う。汁は八分目。それでもうねりの大きい日は、椀によそう手を、船が持ち上がる頂で止める。下りに移る一瞬、汁の面が水平に戻る。そこで注ぐ。揚げ物はやめ、転がらない煮込みに替える。海が荒れた日の夕食は、いつも汁物の椀が先に空になった。
食材は、次の補給港まで保たせる。三月の松山発の航海は、次の積み地まで五日あった。冷蔵庫はひとつ。葉物を先に使い切り、キャベツと根菜を後ろに回す。卵は六人で一日十二個、五日で六十、買ったのは七十。十個の余りが、時化で港が延びたときの保険だった。算段が合うと、献立表の上が静かになる。
六人分だから、全員の癖を覚える。機関長はネギを椀の縁によける。甲板の若い子は、黙って二度おかわりに来る。誰がおかわりをして、誰が箸を早く置いたか。それが、言葉のない通信簿だった。
買い出しの港では、市場に寄った。その日、宇和島で太刀魚が安かった。塩を振って焼いて出すと、機関長が「これ、どこの」と訊いた。その一言のために、私は重い保冷箱を提げて坂を上る。
当直明けの者のために、夜食のおにぎりを握って、ラップをかけ、電子レンジの上に置く。誰が食べるとも決めない、ただの置き飯だ。翌朝、皿が空になっている。司厨長の言った「船の空気」を、私はまだ言葉にできない。ただ、空いた皿を洗いながら、今日もその空気を量っている。