割れた、窓
ガラス屋一年目、割れ方を見ると決めた日

イチハラダン(55歳・ガラス屋33年)

ガラス屋を三十三年やっている。仕事の中身はだいたい入れ替えだ。割れた窓を外して、新しいのを入れる。台風の後、空き巣の後、野球のボール、家の中の喧嘩。割れる理由はいくらでもあって、俺たちはそのあとに呼ばれる。割れる前の家を、俺は知らない。

入ったのは一九九三年、二十二歳のときだった。最初の半年は寸法を測らせてもらえず、ガラスを運ぶばかりだった。吸盤を二つ、ガラスの面に当てて、レバーを倒して吸い付かせる。サッカー、と親方は呼んでいた。吸盤がきちんと吸えば、薄い板がまるで生きているみたいに持ち上がる。あの感触だけは、いまも体が覚えている。

朝、現場に着くと、割れた窓が朝日にきらめいていた。残ったガラスの縁が、光を受けてあちこちに散らばっていた。きれいだな、と思ったのを覚えている。割れたものを前にして、きれいだなんて、いま思えば不謹慎だったのかもしれない。

その日、親方に言われた。「割れ方は見ろ。事情は見るな」。最初は意味が分からなかった。だが現場を重ねるうちに、割れ方というものが読めるようになってきた。ひびがどこを中心に放射しているか。中心が一点なら、何かがそこに当たっている。内側にガラス片が落ちていれば外から、外に落ちていれば内から。当たった力の方向は、破片の散り方に残る。

養生テープの貼られ方にも、その家のことが出る。きれいに格子状に貼ってある窓と、ひびの上にぐしゃぐしゃに星形を描くように貼ってある窓。前者は誰かが落ち着いて貼っている。後者は、たぶん、貼った人の手が震えていた。空き巣に入られたあとの窓と、喧嘩で割れた窓は、テープの貼り方が違う。——だいたい見当はつく。けれど、それを口にしたことは一度もない。

親方が言いたかったのは、たぶんこういうことだ。職人は寸法だけを測る。窓枠の内側を上中下の三か所、縦と横を測る。サッシは歪んでいるから、一か所で測ると必ず入らない。一ミリ大きければビートが噛まずに浮くし、一ミリ小さければガタが出る。割れた事情をいくら読んでも、寸法は一ミリも変わらない。読むのは割れ方まで。事情はその家のものだ。

ガラスカッターの刃には油を差す。油が切れた刃で引くと、線が飛んで、思った通りに割れない。寸法のメモは決まった書式で書く。横長の紙に、縦×横、枚数、ガラスの種類、厚み。ビートの寸法も書く。この書式を崩すと、店に戻ったときに自分でも読めなくなる。仕事は、覚えることより、忘れない仕組みを作ることだった。

そして最後は、片付けだ。割れたガラスは、目に見える大きさのものを拾ったあと、必ず掃除機をかける。サッシの溝の中、カーテンの裾、畳の目。細かい破片は光らないから目では見えない。なぜそこまでやるか。その部屋は、いずれ誰かが裸足で歩く場所だからだ。新しい窓を入れて帰ったあと、子どもがそこを走るかもしれない。俺の仕事は、ガラスを入れることではなく、その家を元通り歩ける場所に戻すことだった。

あれから三十三年、俺はずっと割れ方の観察者でいる。割れた窓を見れば、何が起きたかはだいたい分かる。けれど、それは言わない。あの日、親方の言葉が、俺をいまの俺にしてくれたのだと思う。今日も吸盤を二つ、ガラスに当てる。レバーを倒すと、薄い板が静かに持ち上がる。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。