相方の、呼吸
二人で交互に打つということ

イコマナツメ(33歳・リアルタイム字幕の入力者11年)

生放送の言葉を、数秒遅れで文字にしている。一人では追えない速さがあるから、私たちは二人で組んで、交互に打つ。一人が打っているあいだ、もう一人が次の出番を待っている。長年やっていると、相方とのあいだに、阿吽の呼吸のようなものが生まれてくるのだと思う。

交代には、切れ目がいる。文の途中でいきなり手が変わると、変換の癖がぶつかって字幕が乱れる。だから私たちは、文節の切れ目で渡す。「きょうの試合は――」で私が打ち、「――前半から動きました」で相方が引き取る。読点のあたり、息継ぎのあたり。話者が一呼吸置く、そのわずかな谷で、言葉が手から手へ渡っていく。

話者が変わる瞬間は、交代の合図になりやすい。司会が振って、コメンテーターが答える。その「振り」と「答え」のあいだの半拍で、どちらが取るかを決める。決める、と言っても言葉で決めるわけではない。私が指を引けば相方が出るし、相方が動かなければ私が続ける。譲り合いというより、空いたほうが埋める。水が低いところへ流れるみたいに、自然と決まっていくのだ。

相方には得意分野がある。スポーツに強い人、政治に強い人。私の長年の相方はサッカーの選手名なら目をつぶっても打てるが、国会中継の役職名は少し苦手だ。私は逆で、政治の固有名詞は得意だがスポーツの横文字に弱い。だからペアの組み方には、現場なりの設計がある。サッカー中継なら彼が前に出て、私が後ろで支える。政治討論なら、入れ替わる。お互いの穴を、お互いで塞ぐのだ。

相方がミスをしたとき、訂正を出すのはどちらか。これにも暗黙の決まりがある。打った本人ではなく、次に控えている側が、流れの中でそっと正しい表記を置く。打った本人は、すでに次の言葉を追っているからだ。責める時間などない。誰のミスかを確かめている暇があったら、一行先を打つ。この仕事に、ミスを責める文化が育たなかったのは、たぶん必然なのだと思う。

長時間の生放送は、交代の設計がすべてだ。集中力には波がある。人は十五分も全力で打てば、必ず精度が落ちる。だから三時間の中継なら、何分で交代し、どこで休むかを、放送前に決めておく。波の山と谷を、二人ぶんずらして重ねる。私が落ちる頃に相方が乗っていて、相方が落ちる頃に私が戻っている。二人で一つの、途切れない集中をつくる。

新人と組む日は、勝手がちがう。新人はまだ波の管理ができないし、固有名詞も取りこぼす。だから私が多めに取る。配分を、こっそり七対三くらいに倒しておく。新人には「いつも通りでいい」と言う。本当はいつも通りではないのだが、そう言っておかないと、新人は自分が足を引っ張っていると思い詰めてしまう。先輩の役割は、配分を黙って調整することなのかもしれない。

作業中、私たちは声を出せない。耳は放送の音でふさがっているし、口を開けば集中が切れる。だから意思疎通は画面越しだ。共有のチャット欄に、短い言葉だけが流れる。「次もらう」「固有名詞きた」「水飲んで」。相方の肩がわずかに落ちるのを横目で見て、私はチャットに「あと十分、私が持つ」と打つ。言葉にならない疲れが、肩の動きで分かる。十一年、同じ相方の背中を見てきたからだ。

一人では絶対に追えない速さを、二人で追う。それが、この仕事だ。私が打ち、相方が引き取り、また私が出る。呼吸を合わせ、穴を塞ぎ、波をずらして重ねる。生放送の言葉は、一人の指では受け止めきれない。だから私たちは、二人で一つの手になる。二人で追う速さこそが、リアルタイム字幕という仕事の正体なのだ。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

辛口レビュー →
第二稿(改稿版)→
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。