イクタロウマ(39歳・霊柩車の運転士14年)
朝、車庫の洗車場に立つと、黒い車体に朝日が当たって静かに輝いていた。霊柩車は黒い。だから、埃がよく目立つ。出発の前に洗うのではなく、毎朝洗う。それが運転士の最初の仕事なのだと思う。誰に見られるためでもない。けれど、人生最後の移動を運ぶ車が汚れていてはいけないのだと、私はいつも思っている。
黒という色は、汚れを隠さない。雨の翌朝には水垢が筋になって残り、花粉の季節には全体がうっすら黄ばむ。冬は融雪剤が乾いて、車体の下回りに白い粉を吹く。季節ごとに、汚れの顔が違う。だから洗い方も、その日によって少しずつ変える——のだと思う。今日は花粉の朝だった。
洗う順番は決まっている。上から下へ、屋根、窓、ドア、最後に下回り。先に下を洗うと、上から流れた泥水でまた汚れる。これは入った年に教わった。順番を守れば、同じ場所を二度洗わずに済む。水をかけ、スポンジを滑らせ、また水で流す。朝の車庫は静かで、水の音だけが響いていた。
拭き上げの布は、使い分ける。ボディ用の布で窓を拭くと、油膜が筋になって残る。窓には窓の布、ボディにはボディの布。畳んで角を作り、面を変えながら拭く。一面が湿ったら、次の面に変える。乾いた面で最後に撫でると、黒がいっそう深くなる。この瞬間が、好きだ。
ホイールまで磨く。専用のブラシで、スポークの一本一本の裏側まで届かせる。遺族は、車を下から見上げない。タイヤの内側など、誰も見ない。それでも磨くのは、なぜなのだろう。たぶん、見えない場所まで手をかけた車は、見える場所も自然と違ってくるからだ。そう思うことにしている。
内装も掃除する。とくに後部の、棺を納める室。布で拭き、レールの溝の埃を取り、消臭をする。前の故人を送り終えた室を清めることは、次の故人を迎える準備でもある。誰が次に乗るかは、まだ知らない。知らないけれど、その人のために、いま私は布を動かしている。
洗い終えると、車を一周する。傷がないか、ライトが割れていないか、ナンバー灯は点くか。外装の小さな傷は、信頼の傷だと思っている。誰も見ていなくても、傷のある車で人を送ることはできない。一周して、異常がなければ、それでいい。洗車のあいだは、独り言が許される。声に出して点検の項目を数えるのは、この時間だけだ。
いつだったか、遺族の一人に「きれいな車ですね」と言われたことがある。褒められるために磨いているのではない。けれど、その日のことは覚えている。順調に送り終えた日のことは忘れてしまうのに、あの一言だけは、いまも車体の黒の中に残っている。
十四年、毎朝この車を洗ってきた。雨の水垢も、花粉の黄ばみも、冬の白い粉も、ぜんぶこの手で落としてきた。磨くことは、たぶん、私にとっての祈りなのだ。送る相手は毎回ちがうけれど、磨く手は同じだ。今日もまた、黒い車体が朝日に輝いている。私はその前に立って、布を手に取る。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。