タカハシセイイチ(家計アドバイザー)/『お金の慣用句 — 直観と複利のあいだ』#8
株価が史上最高値を更新し続けている初夏の昼、二十代後半の女性が窓口に座っている。新しい NISA 口座は開いたが、まだ買付は一度もしていない。彼女は資料の余白を指でなぞりながら、こちらを見ずに言う。「今から始めるのは、高値掴みになりそうで怖いんです」。私は黙って面談履歴のファイルを繰る。同じフレーズが、3年前の初回面談から、ほぼ毎回、同じ字面で記録されている。
「高い」は事実の言葉ではない——「高い」「安い」を、相場の客観評価のつもりで口にする人が多い。よく考えると、これは事実報告ではない。市場価格はその瞬間の合意であって、それ自体に高低の符号はついていない。「高い」と言える主体は買い手だけで、それは「自分の手が出せる範囲を上回っている」という宣言だ。閾値の表明であって、相場評価ではない。
宣言の副作用——「高すぎる」と言った瞬間、暗黙の約束が発生する。自分の閾値の下に値が下がるまで、買わない。閾値の方が動くという可能性は、約束のなかに含まれていない。だから「高すぎる」は、未来の自分の動きを縛る言葉として機能する。発話者本人には、自分が縛られたことが見えていない。
待機の費用は時間で支払う——待つことの費用は、現金として通帳から引かれない。引かれないから、待機は無料に感じる。実際には、待機の請求書は時間で書かれていて、時間は会計帳簿に乗らない。乗らないから、3年待ったぶんの上昇分を「自分が払った費用」と認識する人は少ない。費用計上されない費用が、家計のなかで一番高くつく。
閾値が更新されないとき——3年前に「高すぎる」と感じた値段を、今の市場が下回っていないなら、その間に何が起きたのか。心理的な閾値は3年前の水準のまま、現実の水準だけが上に動いた。その差は埋まらない。むしろ広がっていく。「高すぎる」と10回口にする人は、たいてい10回とも、その時点の過去を基準にしている。基準が後ろに置き去りになっている自覚はない。
窓口での内訳——彼女の面談履歴を縦に見ると、3年間で口座開設1件、買付0件、相談回数9件。月単位で見れば動きがあるように見えるが、フォルダ全体を遠目に見ると、同じ場所で足踏みしている。出ている数字は「相談継続中」で、それ自体は業務上の不備ではない。ただ、彼女の家計のほうの帳簿には、3年分の「買えたかもしれない値段」が記されないまま、薄く積もっている。
言い換えてみる——「今は高すぎる、待ったほうがいい」を、自分を主語にして書き直すと、「今の値段は、私が引いている線の上にある。線が下がるか、値段が下がるか、どちらかが起きるまで、私は買わない」になる。意味が変わったわけではない。元の文が「市場の状態」のように装っていた部分が、「自分の状態」として表に出てくる。出てきた瞬間、「3年動かない線」を維持することの不自然さが、文の中で見える。
業界側の事情——書きながら手が止まる。私自身、客に「今は高い」と暗に伝えて見送りを誘導することが、ある。新規契約のなかった月でも、面談予約は埋まる。「もう少し様子を見ましょう」と言えば次回の予約が入り、面談簿の空欄は埋まる。客の閾値が動かないことで、相談員の仕事は補充されている。彼女が3年動かないあいだ、私はその9回の面談に出勤して給与を受け取っている。
窓口に戻る——彼女には、閾値の話までは持ち出さなかった。代わりに3年前の面談記録を一頁めくって見せ、「同じことを書いていますね」とだけ言った。彼女は記録を上から下まで読み、しばらく黙っていた。次回の予約を入れて帰った。次回も同じ会話になるかもしれない。3年待った時間は、私の面談簿には9行として残っているが、彼女の家計簿には、何行としても残らない。
——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。3稿を並置しています。