春の、終わり(第二稿)
シーズンの終わる作業場で

イマイズミナギ(31歳・牡蠣の打ち子13年)

打ち子の仕事は、冬に始まって春に終わる。終わりはいきなり来ない。むき子が一人、また一人と減って、ある朝、作業場が広く感じられる。人が減ると、ラジオの音が大きく聞こえる。それが、毎年の終わりの合図だ。

春が来たと、私はまず手元で知る。三月の終わり、牡蠣の身が痩せてくる。冬に厚く立っていた身が、水っぽく、平たくなる。割っても重みが乗らない。目方が伸びない。海の水が温む前に、牡蠣のほうが先に春を知っている。出荷に見切りがつく日は、誰かが決めるというより、かごの目方が決める。

最終日は、午前のうちに牡蠣が尽きる。午後はもう片付けだ。私はナイフの手入れをする。布テープを巻いた柄を外し、刃の付け根に溜まった貝のかけらを爪楊枝でほじり出す。砥石に当てて、欠けた先はそのままに、面だけ整える。乾いた布で拭き、油を薄く塗って、油紙に包む。十月まで、このナイフは眠る。

台を洗い、かごを伏せて干し、床の貝殻を掃き集める。冬じゅう積み上げた殻の山は、半分が漁礁に、半分が畑に行って、もう低い。空になった作業場は、十八の冬に初めて入った日の広さに戻る。長靴の中が冷えていた、あの広さだ。

「また十月にね」。帰りぎわ、みんなそう言う。来ない人がいる。十月に作業場が開いて、その席に別の人が座っている。ああ、と思う。誰も「もう来年は来ん」とは言わない。席が言う。

シーズンのあいだは別の浜仕事に出る。網を繕う。フジツボの付いた網を浜に広げて、付着物を金べらで落とし、破れにナイロン糸を通す。指は使うが、牡蠣を割る指とは別の指だ。夏のあいだ、来た牡蠣の殻の深さを一秒で読む、あの指先の感覚は、ゆるんでいく。鈍ったと、自分でわかる。

それでも十月、油紙からナイフを出して最初の一個に刃を入れると、一個目は鈍い。二個目、三個目で、手が戻る。頭は遅れている。手が勝手に戻る。私はこれを十三回繰り返してきた。

最終日には、その年の最後の牡蠣を何個か持ち帰る。家で焼く。一冬に数千個を割って、最後の数個だけが、自分の口に入る。塩の匂いがする。また十月にね、と私も言って、油紙に包んだナイフを持って、作業場を出た。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。