イマイズミナギ(31歳・牡蠣の打ち子13年)
打ち子のナイフは、一人に一本、自分のものだ。共用ではない。隣のおばちゃんのナイフを借りても、私には使えない。柄の握りの減り方が、その人の手の形に合わせて減っているからだ。道具は手の延長なのだと、私はこの仕事に就いてから、しみじみそう思うようになった。
朝、作業場の窓の外はまだ暗くて、ラジオが静かに演歌を流している。私たちは銘々のナイフを手に取って、台に着く。ナイフ置き場には、十数本のナイフが並んでいる。誰のものか、私たちは見ればすぐにわかる。柄のテープの巻き方が違い、刃の減り方が違い、長年の使い込みで一本ずつ顔が違うのだ。それぞれの人生が、そこに並んでいるようにも見える。
新しいナイフをおろすと、はじめは「他人」だ。柄がつるりとして、手のなかで落ち着かない。私はまず布テープを巻く。巻き方は自分の手が決める。きつすぎても、ゆるすぎても、握りが決まらない。それから砥石に当てて、刃の角度を自分の手に合わせて研いでいく。数週間かけて、研いで、巻いて、慣らして、ようやくそのナイフは「自分の」になる。そういうものなのだろう。
研ぎの角度には、その人の癖が出る。私は刃を寝かせ気味に当てる。隣のおばちゃんは立て気味だ。同じ砥石を使っても、上がってくる刃はまるで違う。なぜそうするのかと訊いても、おばちゃんは「昔からこうしとる」としか言わない。理屈ではなく、手が覚えた角度なのだと思う。たぶん、それでいいのだろう。
ベテランのナイフは、細い。何十年も研ぎ減って、もとの形がもうわからない。新品の半分くらいの幅しかない刃もある。それでも本人の手にはぴたりと合っていて、よく切れる。ナイフの減り方は、その人の経歴書なのだ。何年この台に着いたかが、刃の細さに刻まれている。私のナイフはまだ太い。十三年ぶんしか減っていない。
一度、ナイフを失くしたことがある。昼の休憩から戻ると、台の上にない。置き場にもない。私は作業場じゅうを探した。かごの下、台の裏、ゴミの袋の中まで見た。心臓が、妙に速く打っていた。たかがナイフ一本なのに、と自分でも思った。けれど、手が落ち着かなかった。出てきたのは、自分のエプロンのポケットの中だった。安堵した。その安堵の大きさに、自分でも驚いた。
あの日のことを、いまでも時々思い出す。あれはきっと、ナイフを失くしたのではなく、自分の手の一部を失くしたような気がしたのだろう。十三年かけて自分の手に合わせてきた一本だ。代わりはきかない。新しいナイフをまた数週間かけて慣らすのかと思うと、ぞっとしたのかもしれない。
夕方、ナイフを置き場に戻す。十数本のナイフが、また一列に並ぶ。明日の朝、私はそのなかから迷わず自分の一本を取る。見なくてもわかる。手が、自分のナイフを知っている。ナイフは、手の延長なのだ。だから他人の手は借りられないし、私の手も、誰にも貸せない。道具と職人とは、そういうものなのだと思う。ラジオは、今日も演歌を流している。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。