タカハシセイイチ(家計アドバイザー)/『お金の慣用句 — 直観と複利のあいだ』#7
二十代後半の男性会社員が、相談票を持ったまま窓口で言いよどんでいた。職場の先輩にインデックス投資を始めた話をしたら、「それ、思考停止だよ」と返された、と。投信協会のパンフレットを開きかけたところで、彼は手を止めた。「先輩がああ言ったということは、本当に何かを止めているのかな、と」。彼の口調は、批判の中身よりも、批判されたという事実のほうに揺れていた。
批判語としての「思考停止」——この四文字は、議論の場で出ると相手の発言を一段下げる効果を持つ。停止しているなら、そこで考えは死んでいる。死んだ考えの持ち主と論を交わす義理はない。だから、根拠の交換が始まる前に、相手を会話のテーブルから降ろせる。便利な語彙ほど、使い方の中身は問われない。
思考の最適配分という見方——個人の思考は有限資源で、どこに振り向けるかという配分問題がある。市場予測は、世界中の機関投資家が情報と人と時間を投じて削り合っている領域だ。個人がそこに思考を投入しても、削り合いの末端に立つだけで、リターンは出にくい。同じ思考を、自分の労働、健康、人間関係に振り向けたほうが、戻ってくるものは大きい。インデックスを買う、とは、配分の優先順位を組み替える選択である。
停止ではなく譲渡——インデックスファンドを買った瞬間、自分の代わりに、世界中のアナリストと運用会社が銘柄選別を続けている。値動きを見張る目も、決算を読む目も、そこにある。手放したのは判断であって、判断の存在ではない。だから「停止」ではなく「譲渡」が正しい動詞だ。譲渡には、譲り先の人がいる。停止には、誰もいない。
動詞を持たない側の言い換え——譲渡という動詞を手元に持っていない人は、譲渡を「やめた」「考えていない」「丸投げした」と訳す。三つの訳語に共通しているのは、譲り先の存在を文から消すことだ。譲り先が消えると、行為が消える。行為が消えると、能動的選択が、怠惰として再記述される。「思考停止」と呼ばれた瞬間、譲渡したという事実そのものが文法的に失われる。
「先輩」の家電と食事——皮肉を一つ書く。この批判をする先輩も、家電は譲渡している。冷蔵庫が壊れたら買い換える、回路図から自作はしない。食事も譲渡している。米を炊くのは家でやっても、ラーメンの出汁の取り方を毎晩研究してから店に行く人はいない。譲渡を全面的に拒否する生活は、誰も送っていない。投資のときだけ譲渡を「思考停止」と呼ぶのは、投資が個人の能力の証明であってほしい、という願望が動詞を選ばせている、ということだ。
業界側の動詞使い分け——書きながら、自分の足元を見る。私の所属先で売っているアクティブ運用商品は、説明資料の中で「思考の代行」「プロの判断をお預かりする」と書いてある。同じパンフレットの後ろのほうで、低コストインデックスは「考えずに置いておくだけ」「思考停止と紙一重」と書かれている。同じ譲渡を、商品ごとに動詞を変えて呼んでいる。代行と呼べば手数料の根拠になる。停止と呼べば乗り換えの動機になる。動詞を選ぶ自由が、こちら側にある。
「考えていない」は本当か——インデックスを選ぶまでに、配分先(株式・債券・地域)、コスト水準、口座区分、定期積立の額、続ける期間。少なくとも五つは、自分で決めなくてはならない。決めたあとに、銘柄選別を譲渡する。決定の重さは、譲渡の前に集中している。先輩の「思考停止」は、譲渡の前にある決定の層を見ていない。見ないことによって、批判が成立している。
窓口に戻る——彼に、譲渡という言葉を渡してみた。譲渡された側に人がいる、と。彼はうなずいて、「じゃあ自分は、何を譲渡したかを言えるようにしておけば良かったんですね」と言った。私は答えに迷った。先輩との会話の場では、動詞の置き換えだけでは多分、足りない。彼が次に職場で同じ話題を振られたとき、何を言えば「思考停止」という札が下りるのかは、私にもわからない。動詞の話を渡したまま、判定はそのまま彼に返した。
——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。3稿を並置しています。