食缶が空で返ってきた日
調理員一年目、検収室で覚えたこと

イノウエミドリ(47歳・学校給食調理員25年)

学校給食の調理員を二十五年続けている。朝六時半に検収室へ入り、その日納品される野菜や肉を一つずつ確かめるところから一日が始まる。回転釜に火を入れ、しゃもじより大きいスパテラで何百人分のおかずを混ぜる。けれど、私たちの仕事には、ひとつだけ見えないものがある。食べている子どもの顔だ。

給食は、作る側からは子どもの顔が見えない仕事だ。配膳室で食缶を渡し、教室から戻ってくるのを待つ。返事の代わりに返ってくるのは、角形の保温食缶の重さだけ。軽ければよく食べてくれた、重ければ残った。私たちはその重さで、その日の献立への返事を受け取っていたのだと思う。

二〇〇一年、私が二十二歳で採用された一年目のことだ。当時の私は、湯気の立つ回転釜の向こうに、子どもたちの笑顔が見える気がして、それだけで嬉しかった。残菜計量の記録簿に数字を書きながら、今日はみんな喜んでくれただろうか、と毎日思っていた。

そのころ、いつも残菜の多いクラスがあった。六年二組。食缶はいつも重く戻ってきて、ふたを開けると、おかずが半分近く残っていることもあった。記録簿のそのクラスの欄だけ、私の字が少しずつ小さくなっていったと思う。何がいけないんだろう。味付けだろうか、量だろうか。考えても、調理場からは答えが返ってこない。

ある日、その食缶が、初めて空で返ってきた。ふたを開けると、底に薄く茶色い汁が残っているだけで、おかずはきれいになくなっていた。私は思わず、配膳室で食缶を抱えたまま立ち止まってしまった。

その日の献立は、カレーではなかった。子どもが喜びそうな揚げ物でもなかった。切り干し大根の煮物だった。茶色くて、地味で、正直に言えば、私自身が子どものころは苦手だったおかずだ。なぜ、よりによってこの日だったのだろう。私はしばらく、その意味を考えていた。

先輩の調理員さんに食缶を見せると、その人は記録簿をのぞき込んで、静かに言った。「前の日にね、担任の先生が代わったのよ」。それだけだった。新しい先生が、子どもたちと一緒に食べるようになったらしい。理由はそれだけのことだったのかもしれない。でも私には、切り干し大根が誰かの手で初めてちゃんと食べられた日のように思えた。

あれから二十五年。私は残菜と食缶の観察者になった。アレルギー対応の色別トレーを並べながら、検収室で野菜の鮮度を確かめながら、いつも食缶の重さのことを考えている。重い日には何があったのか、軽い日には何が起きたのか。子どもの顔は見えないままだ。けれど、食缶の重さは、嘘をつかない。

給食を作る仕事は、子どもを喜ばせる仕事だと思われがちだ。でも本当は、見えない相手の一日を、重さだけで受け取り続ける仕事なのだと、いまでは思う。あの日、空で返ってきた食缶が、私をいまの私にしてくれた。検収室の朝は、今日も六時半に始まる。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

辛口レビュー →
第二稿(改稿版)→
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。