イオリツムグ(51歳・鍼灸師27年)
鍼の話は前にも書いた。今日は灸の話をしたい。灸はもぐさを皮膚の上で燃やす。よもぎの葉から精製した、あの綿のような繊維だ。火を扱う仕事だから、鍼とはまた別の集中がいる。千年の昔から受け継がれてきた知恵を、私はいま指先で扱っているのだと思う。
もぐさには等級がある。よもぎの葉裏の白い毛だけを、何度も篩にかけて残したものが上質のもぐさだ。精製の度合いが高いほど不純物が抜けて、色は淡い黄金になり、軽く、ふわりとほどける。粗いもぐさは緑がかって重く、葉の屑が混じる。上質のものは低い温度でやわらかく燃え、粗いものは高い温度で勢いよく燃える。どちらが良いというのではない。すえる場所と目的で使い分けるのだと思う。
捻りの大きさで熱の量が決まる。米粒大に捻れば一壮でしっかりと熱が通り、半米粒大ならやわらかく、その半分の糸状にすれば、ちりりと触れて消える。指の腹で繊維を転がしながら、今日この人にはどれだけの熱を渡すかを決めていく。大きさは目で測るのではない。指がもう覚えていて、欲しい熱の量を思えば、その分だけ捻れている。
すえる場所は、ツボの位置を本で覚えた通りには取らない。同じ足三里でも、その日の皮膚の状態で少しずらす。乾いて張っている肌、汗ばんでむくんでいる肌、冷えて青白い肌。指で触れて、いちばん熱を受け取りたがっている一点を探す。教科書の点と、今日の体の点は、いつも少しずれている。そのずれを読むのが、たぶん仕事の本体なのだろう。
灸をすえるとき、私はいつも「熱くなったら言ってください」と声をかける。これは形式的な確認ではない。我慢する人ほど熱を逃がさず、皮膚を傷めてしまう。だから、言ってくださいね、と何度も繰り返す。熱いと言われたら、燃え切る前に指でつまんで取る。患者に我慢をさせない——そういう設計の上に、灸という手仕事は成り立っているのだと思う。
昔の灸は、跡を残すのが当たり前だった。化膿させて、その治癒力で体を立て直すという考え方もあった。いまは違う。痕を残さない透熱灸や、台座のついた間接灸が主流になった。「お灸の跡」という言葉が通じない若い患者も増えた。これを昔は良かったと懐かしむ気持ちは、私にはない。痕を残さずに同じ効果を出せるなら、そのほうがいいに決まっている。技術は患者のためにある。
艾の香りは、仕事場のすべてに染みている。白衣にも、髪にも、玄関ののれんにも。電車に乗ると、隣の人がふと鼻を動かすのがわかる。煙のような、薬草のような、香ばしいような匂い。自分ではもう嗅ぎ分けられないほど馴染んでしまった。家に帰ると娘が「お灸の匂い」と言う。私の二十七年は、たぶんこの香りの形をしている。
自宅でのお灸を教えることもある。台座灸を一箱渡して、足三里と三陰交の位置を油性ペンで皮膚に印す。「熱いと感じたら、すぐ取ってくださいね」と、ここでも同じことを言う。けれど、自分で背中はすえられない。家でできることと、ここでしかできないことの線引きを、私は患者ごとに引いている。任せられるところは任せ、預かるべきところは預かる。
火を一つ、皮膚の上に置く。燃え尽きるまでの数秒、私も患者も黙る。熱の量を捻りで調合し、置く場所を指で選び、熱さの手前で取る——その一連こそが灸という手仕事なのだ。香りの染みた白衣で、私は今日もその数秒を、一つずつ積み重ねている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。