イオリツムグ(51歳・鍼灸師27年)
鍼灸の仕事を二十七年続けている。患者は口で痛みを訴える。けれど体は、別の場所で答えを持っていることがある。口の言葉と、指で聞いた体の声。この二つのずれを毎日見ているうちに、私はいつのまにか、ずれの観察者になっていた。
専門学校を出て国家資格を取り、鍼灸院に勤めはじめたのは一九九九年の春だった。二十四歳だった。古い建物で、治療室にはもぐさの匂いが東洋の神秘のように静かに満ちていて、師匠は窓辺で湯のみを傾けながら、私が患者に問診する様子をじっと見ていた。
初日の終わり、師匠は私を呼んで言った。「口の問診は半分だ。残りは指で聞け。肩が痛いと言う人の腰が、答えを持ってることがある」。私はうまく意味がつかめなかったのだと思う。痛い場所と、悪い場所は、同じだとばかり思っていたから。
触診の訓練がはじまった。皮膚にはいくつもの層がある。表面の温度、その下の張り、さらに奥のこわばり。指の腹をそっと当て、少しずつ沈めていくと、層が順にほどけて、いちばん奥に固いしこりが触れることがある。師匠は私の指に自分の指を重ねて、「ここ、わかるか」と訊いた。最初は何もわからなかった。指先の感度というのは、こうやって少しずつ育てていくものらしい。
鍼の打ち方も覚えた。管鍼法といって、細い管に鍼を入れ、出ている頭を指で軽く叩いて皮膚に入れる。トン、と小さな音がする。痛くないように刺すには、この最初の一打を迷わないことだと教わった。迷うと鍼先が皮膚の上で泳いで、かえって痛い。患者の体に入る前に、こちらの手が決まっていないといけないのだと思う。
灸はもぐさの捻りの大きさで熱さが変わる。米粒の半分ほどに捻れば、熱さの手前で消える。大きく捻れば、跡が残るほど熱くなる。師匠は「熱さの手前で止めろ。我慢させた熱は効かない」と言った。指先でもぐさを捻る加減は、いまでも毎回、その日の患者の肌を見て決めている。
勤めて間もない頃、ぎっくり腰の人が壁伝いに駆け込んできた。靴も自分で脱げない。私が腰だけを診ようとすると、師匠は「足を見ろ」と言った。ふくらはぎの一点に鍼を打つと、その人は嘘のように立ち上がって帰っていった。即効だった。けれど三日後、また同じ姿で駆け込んできた。体は正直で、原因を残したままでは、すぐ元に戻る。私はそのとき、痛みを取ることと、治すことは違うのだと、なんとなく感じたのかもしれない。
長く通う患者には、体の暦のようなものがある。梅雨に決まって膝が重くなる人、秋口に肩が上がらなくなる人。カルテには書ききれないその周期が、何年も診ているうちに、私の指のほうに記録されていく。脈を取れば、ああ今年もこの季節か、と手が先に思い出す。体は、その人が言葉にしない一年を、ちゃんと覚えている。
あれから二十七年。指で聞くということが、ようやく少しわかってきた気がする。鍼灸とは痛みを取る仕事だと思われがちだが、本当は、訴えの場所と原因の場所のずれを読む仕事なのだと、いまでは思う。肩が痛いと言う人の腰に手を置くたびに、私はあの初日の言葉を思い出す。体のずれを見つづけたあの日々が、私をいまの私にしてくれた。治療室には、今日ももぐさの匂いが静かに満ちている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。