ベルを、鳴らせない(第二稿)
自転車の国から来た僕の、最初の半年

ダーン・ヤンセン(17歳・オランダからの交換留学生)

去年の十月。来日して一週間目だった。駅から学校まで、歩道を歩いていた。後ろから、何の音もなく、自転車が来た。気づいたのは、左の袖が、ふっと動いたときだ。風だと思った。違った。自転車だった。僕の肩のすぐ横を、止まらずに、抜けていった。乗っていたのは、僕と同じくらいの年の女の子で、こちらを見もしなかった。袖が動いたあのとき、僕は手を伸ばせば相手に届いた。届く距離を、向こうは、走ったまま通った。

僕の国では、こうはならない。自転車は車道か、自転車の道を走る。人の横を抜くときは、ベルを鳴らす。チリン、と。あれは「どけ」ではない。「ここにいますよ」だ。鳴らさないほうが、失礼になる。僕の母は、後ろから歩行者に近づくとき、まだ遠いうちから一回鳴らす。相手が振り向く時間を、渡すために。だから僕にとってベルは、ずっと、優しさの音だった。

同じクラスのタケウチソウタに聞いた。タケウチソウタは、言葉に妙にうるさい子で、僕の遅い日本語を、急かさずに待ってくれる。「日本では、自転車のベル、鳴らさないの?」。タケウチは少し考えて、言った。「ベル鳴らすの、感じ悪いじゃん。なんか、怒ってるみたいだから」。

あの日、僕の袖をかすめて行った人は、たぶん、優しかったのだ。ベルを鳴らせば、僕が「怒られた」と感じる。それが嫌で、黙って、よけて、ぎりぎりを通った。不快にさせない、という気遣い。けれどその気遣いは、僕の肩と、向こうのハンドルの、あの数センチと、引き換えになっていた。優しさのために音が消えて、そのぶん、危なくなる。僕は今でも、それをうまく飲み込めない。

気遣いの、測るものが違うのだと思う。あの人が測っていたのは、僕の気分だった。僕の母が鳴らすベルが測っているのは、相手の体だ。気分を守るか、体を守るか。どちらも、相手のことを思っている。どちらが正しいのかは、僕には決められない。決められないけれど、ひとつだけ、これは引かずに書く。音を出さない優しさは、すれ違う、あの一秒には、間に合わない。

冬、スキー教室があった。ゲレンデの下で生徒が並んだとき、ヘルメットをかぶっている頭を、僕は数えた。四十人ほどいて、かぶっていたのは、六人だった。スケート場でも、同じだった。タケウチに言うと、「ヘルメット、ちょっとダサいって空気あるからね」と笑った。——でも、僕が日本を笑えるわけではない。僕の父も、自転車にヘルメットをかぶらない。「子どもじゃないんだから」と言って。僕の国の大人の多くも、そうだ。かっこ悪さに安全が負けるのは、たぶん、どこの国にもある。

梅雨に入った。雨上がりの夜、僕は借りた自転車で帰っていた。前を、傘を畳んだ人が、ゆっくり歩いていた。僕はベルに、親指を載せた。鳴らせば、ここでは失礼かもしれない。鳴らさなければ、母のベルに、嘘をつく気がした。親指は、ベルの上で、止まったままだった。結局、僕は押さなかった。ハンドルを切って、その人の、ずいぶん外側を回って、通り過ぎた。親指は、最後まで、ベルの上にあった。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。ダーン・ヤンセンは架空の人物です。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。