ダーン・ヤンセン(17歳・オランダからの交換留学生)
日本に来て、一週間目のことを書きたい。まだ日本語はうまく書けない。だから言葉を探しながら書く。許してほしい。僕の国オランダは、自転車の国だ。人より自転車のほうが多い、と言われる。その国から来た僕が、日本の歩道で、最初に戸惑ったことの話をしたいと思う。
去年の秋、十月だった。駅から学校まで、歩道を歩いていた。そのとき、横を、自転車が抜けていった。無音だった。けっこうな速さだった。僕の肩のすぐ横を、何も言わずに、通り過ぎていった。僕は思わず足を止めた。心臓が、少し鳴った。あと十センチ横にずれていたら、ぶつかっていた。そういう距離だった。そういう速さだった。
オランダでは、こうはならない。自転車は車道を走るか、自転車専用の道を走る。歩行者の横を抜くときは、ベルを鳴らす。チリン、と。あれは「どけ」ではない。「ここにいますよ」という合図だ。鳴らさないほうが、むしろ失礼だとされている。だから僕は、ベルは優しさだと思って育った。鳴らすことが、相手を守ることだと。
同じクラスに、タケウチソウタという子がいる。タケウチソウタ。言葉にうるさい子で、僕の下手な日本語にも、ちゃんと付き合ってくれる。僕はタケウチに聞いた。「日本では、なぜ自転車のベルを鳴らさないの?」。タケウチは少し考えて、こう言った。「ベル鳴らすの、感じ悪いじゃん。なんか、怒ってるみたいだから」。
僕は、混乱した。日本では、ベルを鳴らすことが、相手への不快感になる。だから人は、黙って、減速もせずに、ぎりぎりを抜いていく。相手を不快にさせない、という気遣いのために。けれどその気遣いは、ぶつかる危険と、交換されている。歩行者がほんの少し横にずれたら、接触する。その距離で、その速さで。優しさのために、音が消されて、そのぶん、危なくなっている。僕には、それがどうしても、わからなかった。
たぶん、気遣いの物差しが、違うのだと思う。日本の気遣いは、「相手の気分」を測る。オランダの——というか、僕の家の——気遣いは、「相手の安全」を測る。どちらも、相手のことを思っている。思っているのに、物差しが違う。気分を守るか、体を守るか。本当に相手のためなのは、どちらなのだろう。僕には、すぐには、答えが出せない。
冬になって、スキー教室があった。驚いたのは、日本の生徒の多くが、ヘルメットをかぶっていなかったことだ。僕の国の学校では、考えられない。スケートに行ったときも、そうだった。タケウチに言うと、「ヘルメット、ちょっとダサいって空気あるよね」と笑った。安全が、かっこ悪さに、負けている。——もっとも、これは日本だけの話ではない。正直に言えば、オランダの大人だって、自転車に乗るときヘルメットをかぶらない人は多い。僕の父もそうだ。だから僕は、日本を一方的に責められる立場ではない。
これは日本文化の弱さなのだろうか——と、書きかけて、僕は手を止めた。たぶん、そう言ってしまうのは、違う。気遣いの形は、国によって違う。かっこよさの基準も、国によって違う。どちらが正しい、という話ではないのだと思う。ただ、ひとつだけ、留保なしに言えることがある。音を出さない優しさは、すれ違いざまの、あの一秒には、間に合わない。それだけは、僕の肩がおぼえている。
梅雨に入った今、僕はようやく自転車を借りて乗っている。この前の夜、帰り道で、前を歩いている人がいた。僕はベルに親指を載せた。鳴らすか、迷った。鳴らせば、日本では失礼かもしれない。鳴らさなければ、僕の国の僕に、嘘をつくことになる。結局、僕はベルを鳴らさず、そのかわり、少し大きく、迂回した。どちらの国のマナーでもない、僕だけのやり方で。二つの文化の間で、僕はこれからも、考え続けるのだと思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。