四つ、ではなかった
——日本の義母から、中国の嫁へ

第二稿(第一稿辛口レビューを経て書き直した版)

※本エッセイはすべて創作です。登場人物・団体・出来事はすべて架空のものであり、実在のいかなる個人・組織・事案とも関係ありません。

※本稿は李暁明『四つ、同時にある』への対角の応答として書かれた。原作を先にお読みいただくと、本稿の輪郭が立ち上がる。

「日本のおばあちゃん」、と孫から呼ばれている。山田由紀子、七十一歳。東京の郊外で、ひとり暮らしをしています。

息子の妻が、北京から来た人だ、と言うと、たいてい人は私を心配そうに見る。「ご苦労が多かったでしょう」と。

なんと答えていいか、いまだに分からないのです。

苦労が、なかったわけではない。けれど、もっと別の形をしていた。たぶん、世間が想像しているような苦労では、なかったのです。

暁明さんが、ご自分のエッセイの中で、「四つの感情」のことを書いておられました。蔑視・憧れ・尊敬・敵対心。中国の人たちが日本に対して持っている四つの感情が、同時にひとりの胸の中にある、と。

私の側にも、四つあった——と書きたいところですが、それが、どうも、ちょっと違うのです。私の中にあったものは、いまも、うまく言葉にできない。たぶん、これから書くのは、その「うまく言葉にならない」ことについての、長い言いわけです。

一.息子の電話

あれは、もう十六、七年も前になります。息子の嘉一から、夜、電話がありました。

「結婚したい人がいる」と。

「そう、よかったわね」と返したら、すこし間があって、嘉一はこう続けました。

「中国の人なんだ。北京から来た留学生で、いま大学院にいる」。

受話器を持ったまま、私は台所のテーブルに、ゆっくりと座りました。座らないと、立っていられない、というほど大げさなことではなかったのですが、なんだか、足がすこし重くなった。

「そう」とだけ、私は返事をしました。

そのあと、嘉一は仕事の話に切り替えて、電話は終わりました。私は受話器を置いてから、しばらく、流しの方を見ていた。

そのときの私の気持ちを、いま、正確に思い出してみます。

反対する気持ち、ではありませんでした。
喜ぶ気持ち、でも、ありませんでした。
ただ、とまどいでした。

とまどい、というのは、嫌悪とは違うのです。怒りとも違う。もっと、こう、足元が一段下がったような、急に大きな部屋に入ったような。「これからのこと」が、急に、私が予想していたものより、ずっと広い場所に行ってしまった、という感覚でした。

二.父の沈黙

その夜、布団の中で、私は父のことを思い出していました。

私の父、福田源太郎は、戦争に行った世代でした。中国大陸に出征して、終戦の翌年に帰ってきた、と母から聞いています。私自身が、父からその話を聞いたことは、一度もありません。

父は、戦争のことだけは、絶対に話しませんでした。

私が小学生の頃、夏休みの宿題で「家族の戦争体験を聞いてみよう」というのがあって、父に聞いたことがあります。父は、新聞をたたんで、こう言いました。

「お父さんは、何もしていないよ」。

「何もしていない」という言葉が、子ども心に、ずっと引っかかっていました。何もしていないのに、なぜ話さないのだろう、と。

父は1995年に亡くなりました。最後まで、戦争の話は、しませんでした。

その夜、布団の中で、ふいに、父のことを思い出した理由が、自分でもわかりませんでした。嘉一が連れてくる人は、北京の人だ。北京は、父が出征した中国大陸のどこかと、同じ国にある町だ。それだけのことで、私の中の何かが、四十年か五十年ぶりに、しずかに、めくれ上がりました。

父は、中国のどこかで、何かをした、あるいは、何かを見た。それを、家族にも、戦友以外の誰にも、語らなかった。「何もしていない」とだけ言って、棺桶に持って入った。

そして、その「何かをした、あるいは、何かを見た」相手の国から、息子が、お嫁さんを連れてくる。

私は怖くなった。

怖い、というのは、相手の人を怖いと思った、という意味ではないのです。父の沈黙が、何を含んでいたのか、私が一生、知らないままだった、ということが、その夜、急に、怖くなった。

暁明さんのお祖父さまの話を、私が知るのは、ずっとあとのことです。それは後の章で書きます。

三.結婚式の朝

結婚式の朝のことを、覚えています。

仏間で、父の遺影に向かって手を合わせました。「お父さん、嘉一が、中国の人とご縁をいただきました」。声に出さずに、心の中で、そう報告しました。

父の遺影は、笑っていました。生前のままの、ちょっと困ったような笑顔で。

父は何と言うだろうか、と、何度も考えていました。反対するだろうか。何も言わないだろうか。

仏間で、私は、ある考えに、初めて、たどり着きました。

父が「何もしていない」と言ったあの言葉は、もしかしたら、赦してもらいたかったのではないか。

誰に。家族に、ではなく、もっと向こうの、知らない誰かに。父が中国大陸で見た顔、あるいは、父が向き合った国の、どこかの誰かに。

そして、その「知らない誰か」の側から、いま、ひとりの女性が、うちに来てくれる。

私は、仏壇の前で、すこし泣きました。なぜ泣いたのかは、自分でも、はっきりしませんでした。

そのあと、式場で、暁明さんに会いました。白いドレスを着て、笑っていました。「お母さん、よろしくおねがいします」。日本語が、すこし丁寧すぎるくらい、丁寧でした。

私は「こちらこそ」と言って、頭を下げました。

その瞬間、私の中で、とまどいは、まだ消えてはいなかった。けれど、とまどいのすぐ隣に、もうひとつ、別のものが座っていました。それが何だったかは、その日の私には、まだわかりませんでした。

四.通学路の二十年

結婚してから、十六、七年。お正月に集まって、お盆に集まって、ときどき孫の運動会に行って、そういう、ふつうの親戚づきあいをしてきました。

暁明さんは、よく気のつく人でした。私の好きな和菓子を覚えてくれて、お見舞いに来てくれて、夫が亡くなったときも、嘉一より先に、私の手を握ってくれた。

けれど、二十年近く経っても、私と暁明さんのあいだには、まだ通学路の長さがあります

うちの娘——血のつながった娘がいたとして——なら、たぶん、こんなには遠くないだろう、と思うことがあります。私が体調を崩したとき、彼女は心配してくれます。けれど、彼女が体調を崩したとき、私は、本人より先に嘉一に電話をかけてしまう。本人に、まだ、まっすぐ届かない

これは、彼女が中国の人だから、ではない、と思います。たぶん、お嫁さんと姑のあいだには、もとから、どんな国であっても、通学路の長さがある。それに加えて、私たちには、海ひとつぶんの、もうすこし長い道がある。

その長さは、若い頃も、最近も、距離は距離です。それを「奥ゆかしさ」だの「節度」だのと、上品な言葉に言い換えて飲み込もうとした時期もありました。けれど、いまは、もう、距離は距離だ、と思っています。距離があることを、距離があるまま、認めて、隣に座る。それしかない。

距離があるから、踏み込まずにすむ。踏み込まないから、長くつき合える。父の沈黙のように、語らないことが、関係を守るときも、ある。

暁明さんが、私に話さないことが、いくつかあるのを、私は、知っています。
私が、暁明さんに話さないことが、いくつかあるのも、たぶん、彼女は、知っています。
互いに知っていて、互いに、その中身は、聞かない。

これが、通学路の二十年のあいだに、私たちが見つけた、ささやかな作法でした。

五.「もういいね」を、私は聞いた

孫娘の花が、十歳になった春のこと。

暁明さんから、ある日、電話がありました。「お母さん、聞いてくださいよ」と、彼女が珍しく、笑い半分、泣き半分の声を出していました。

花が、戦争の話を学校で習って、家に帰ってきて、お母さんに聞いたのだそうです。「ひいおじいちゃん(中国側)は、戦争で日本と戦ったの?」。「戦ったよ」。「じゃあ、パパのひいおじいちゃん(日本側)とは、敵だったの?」。「そういうことになるね」。「でも、二人とも、もういないんでしょう?」「うん」。「じゃあ——もういいね」。

暁明さんは、そのとき、すこし泣きそうになった、と言いました。「もういいね」と娘に言わせてしまったのが、申し訳ない、と。娘に肩代わりさせた、と彼女は言いました。

私は、受話器を持ったまま、しばらく、何も言えませんでした。

その夜、ひとりで、お風呂に入りながら、考えていました。

暁明さんが、申し訳ないと言ったのは、半分は本当で、半分は、たぶん、間違っているのではないか、と。

花は、肩代わりしたのではなかった。花は、私たち二人ぶんの重さを、知らずに、持ち上げてくれたのです。

暁明さんの側の沈黙——お祖父さまの抗日戦争のこと——は、あの夜の電話で、私もはじめて、はっきりと知りました。私の側の沈黙——父の中国大陸のこと——は、暁明さんは、たぶん、まだ、何も知らない。

その二つの沈黙の上に、十歳の花が、すとんと、「もういいね」を置きました。

暁明さんは、自分の側の沈黙だけを娘に背負わせた、と思っていた。違うのです。花は、両側の沈黙を、まとめて、降ろしてくれた。日本側の沈黙の重さも、あの五文字の中には、入っていた。

私は、お風呂で、ちょっと泣きました。誰にも見られないので、好きなだけ泣きました。

「もういい」と娘に肩代わりさせた、と暁明さんは言いました。
でも、肩代わりではなかった。
花は、私たち二人ぶんの重さを、十歳の手のひらで、知らずに持ち上げて、降ろしてくれたのです。
暁明さんに、それを伝えたい。けれど、伝えるべきかどうか、いまも、わかりません。

翌日、暁明さんに電話を返しました。「花ちゃんに、ありがとうって伝えてあげてください」と。それしか、言えませんでした。父の話も、私の側の沈黙のことも、私は、彼女に話していません。話していいのかどうか、いまも、決めかねています。

そのとき、私の中の、結婚式の朝にとまどいの隣に座った「もうひとつのもの」に、ようやく、名前がつきました。

感謝、です。

感謝、というのは、嬉しさとは違う。借りを返したい気持ち、とも違う。「あなたが、ここに、いてくれてよかった」という、ただ、そのひとことを、相手の頭の上に、しずかに置きたい気持ちでした。

暁明さんが、うちに来てくれて、よかった。
花が、生まれてきてくれて、よかった。
そして、十歳の花が、私の代わりに「もういいね」と言ってくれて、よかった。

六.お正月、餃子と雑煮

うちのお正月の食卓には、いつ頃からか、餃子が乗るようになりました。

最初は、お雑煮と並んで、すこし違和感がありました。お雑煮の隣に、湯気の立った餃子の皿。日本の食卓に、急に、別の家のにおいが入ってきたような。

暁明さんは、最初の頃、遠慮して、餃子を持参しなかったと思います。あるとき、嘉一が「お正月の餃子、食いたいなあ」と言ったのが、きっかけだったのか、彼女が、ある年から、お皿に山盛りの餃子を、台所に置いてくれるようになりました。

うちの食卓に、餃子が並ぶ。お雑煮も並ぶ。花が、両方を食べる。融合、ではないのです。並んでいる、だけ。

融合してくれたら、もっと楽だったかもしれません。日本の正月料理に、すこし中華風のアレンジが加わって、ひとつの新しい料理になる、というような。けれど、うちの食卓は、そうはなりませんでした。お雑煮はお雑煮で、餃子は餃子で、それぞれが、それぞれの形をしたまま、ただ、隣に並んでいる。

これが、たぶん、私たちにできた、いちばんの形でした。

融合は、どちらかの輪郭を、もう片方に溶かすことです。私たちは、輪郭を、溶かさないことにした。お雑煮の輪郭も、餃子の輪郭も、別々に、テーブルの上に、ある。

父の沈黙の輪郭も、暁明さんのお祖父さまの沈黙の輪郭も、たぶん、別々のままです。それでいいのだ、と、いまは思っています。一つにまとめなくていい。並べておくだけで、私たちは、もう、十分、隣人として暮らしているのだから。

結び:四つだったのか、ひとつだったのか

はじめに「私の中にあったのは、四つではなかった」と書きました。

振り返ってみても、私の中にあったものは、四つだったのか、ひとつだったのか、いまもよくわかりません。

息子の電話の夜は、それは「とまどい」と呼ばれていました。
結婚式の朝には、とまどいの隣に、名前のないものが、しずかに座りました。
通学路の二十年のあいだに、距離は、距離のまま、私たちのあいだに、ありました。
花の「もういいね」を聞いた夜には、結婚式の朝に座った名前のないものに、ようやく、感謝という名前がつきました。
お正月の食卓では、それは、ただ、お雑煮の隣で、湯気を立てています。

これらが、別々の感情だったのか、ひとつのものが姿を変えていただけなのか、私には、いまも、判定がつきません。

暁明さんは「四つの感情が同時にある」と言い切れる強さを持って、あのエッセイを書かれた。私には、その強さは、ありません。私の中のものは、四つに分けて並べることもできず、ひとつに統合することもできず、ただ、もやっとしたまま、七十一年、私の胸にいてくれた。

暁明さんが四つを同時に背負っていたあいだ、私が何を背負っていたのか、本当のところは、わたしにもよく分かりません。分からないものを、分からないまま、抱えていられる、ということだけが、私が七十一年で身につけた、たったひとつの作法でした。

四つの感情を、同時に持ち歩いてくれている、あの人に。
分からないものを、分からないまま抱えてきた私から、
ありがとう、と。

——最後に、ひとつだけ、白状しておきます。

私は、餃子の皮を、いまだに、自分で包めません。何度教えてもらっても、形が崩れるのです。

この不器用さのまま、あと何年か、隣のおばあちゃんとして、続けていくしかない、と思っています。

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山田 由紀子

このページの記事はAI(Claude)を用いて作成・編集されています。山田由紀子は架空の人物です。