『一人だけ、では』の、半年あとの続編。視点が、佐藤紗英子から、新しく入った高橋瑞希に、切り替わる。
高橋瑞希。二十五歳。進学塾アスター、入社一ヶ月。前職は、別の中小規模の塾チェーンで、新卒から三年。
スタッフは二十人。私で、女性が、二人目。佐藤紗英子先生が、十年いる、唯一の女性スタッフだった。私は、その「唯一」を、一段、外す側に、入った。
入社初日、所長が朝礼で言った。「これで、女性が、二人になりました。佐藤さん、よろしくね」。佐藤さんは、ちょっと、笑った。私も、笑った。所長は、たぶん、「これで多様性、達成」みたいな顔をしていた。私と佐藤さんは、たぶん、それを、お互いに、見ていた。
入社一週間目。外線の電話が、私のデスクに転送された。私が、その日、外線の当番だった。
「あの、すみません、女性の先生、佐藤先生をお願いします」
私が出た。「佐藤は、いま、授業中で。私、新しく入った高橋ですが」
「あ、そう……佐藤先生、いつ、戻られますか?」
「四十分後です」
「では、また、おかけしなおします」
電話は、切れた。
佐藤さんが授業から戻ってきたら、私は、伝えた。「指名でした、母親、佐藤先生をって」
佐藤さんは、頷いた。「うん、ありがとう」
そのあと、佐藤さんは、ちょっと、付け加えた。「私が辞めるまで、たぶん、こういう電話、瑞希ちゃんには、あんまり、回ってこない」
私は、それを、聞いた。
入社二週間目。教材会議。文化祭の出店の役割分担。「女子は受付、男子は売り子」というドラフトが、ホワイトボードに書かれていた。
私は、手を挙げた。「これ、性別で分けなくても、いいですよね」
所長は、「あー、まあ、女性陣の意見ね」と笑って、頷いた。「考えとくよ」
他の講師たちは、ふっと、肩の力を抜いた。話題は、別のところに、流れていった。
会議のあと、佐藤さんが、私のデスクに来た。「ありがとう、言ってくれて」
「いえ……」
「わたしが一人で言ってきたことを、瑞希ちゃんが言うと、『女性陣』に括られた。けれど、二人で言えば、ちょっと、声は、大きくなる」
「……流された気がしました」
「うん。流された。けれど、所長の頭には、たぶん、薄く、残ってる。一人だけのときより、ほんの、ちょっと、濃く」
佐藤さんは、笑ってない目で、笑った。
ある日の昼休み、佐藤さんが、私の机の引き出しを、ちょっと開けて、ナプキンを、入れていった。
「ここに、置いとくね、瑞希ちゃんのデスクにも」
「あ、はい。これ、塾の備品じゃないですよね」
「私の」
「私も、買います、自分の」
「うん、そうしてくれると、たぶん、生徒、二倍、助かる」
佐藤さんは、それだけ言って、自分の机に戻っていった。
私は、引き出しを、しばらく、見ていた。「二倍、助かる」というのは、十年、佐藤さん一人で買い続けた、ということでもあった。
入社三週間目の金曜、佐藤さんと二人で、駅前のカフェに行った。佐藤さんは、コーヒーを、ゆっくり飲みながら、こう言った。
「瑞希ちゃん、辞めないで、しばらく」
「辞めません」
「辞めるかな、って思った時期、あったから」
「佐藤先生も?」
「うん、何度も。けれど、辞めなかった。辞めなかった理由は、たぶん、ユイちゃん、みたいな子が、いたから」
「ユイちゃん」
「去年の中三。卒業したけど、たまに、塾に遊びに来る。私が辞めたら、ユイちゃんは、別の女性の先生を、別の塾で、ゼロから探さないといけなかった」
私は、頷いた。
佐藤さんは、続けた。「瑞希ちゃんが入って、私の役割は、たぶん、半分、軽くなった。でも、組織の弱さは、半分には、ならなかった」
「……ならなかった、ですか」
「うん。半分の人数で、半分の重さじゃなくて、たぶん、ちょっと、減ったくらい」
佐藤さんは、コーヒーを、飲み終えた。
家に帰る道で、考えた。
私が辞めれば、佐藤さんは、また、一人に戻る。母親からの電話は、ぜんぶ佐藤さんに集中する。教材会議の発言は、また「女性陣」と括られなくて済むけど、「マイノリティ意見」と一人で言い続ける。引き出しのナプキンも、また、佐藤さん一人で、買う。
それは、私が引き受けるべき重さ、なのだろうか。
引き受けるべきではない、と、思う。けれど、辞める覚悟も、まだ、ない。
佐藤さんが、十年前に思ったのと、たぶん、同じことを、入社一ヶ月の私は、もう、考えている。十年経つと、何か変わるんだろうか。たぶん、変わるのは、私のほうではなくて、私の重さの感じ方のほうだ。
組織の弱さは、二人で支えられている。
二人で支えられている、ということ自体が、まだ、組織の弱さだった。
これは、佐藤先生が一人で支えていた頃の弱さの、形を変えただけ。本質は、たぶん、変わっていない。
「女性陣の意見」と一括で括られる、ということは、二人になっても、まだ、私たちが「個」として扱われていない、ということだった。一人だった頃は、「佐藤さん」という固有名で扱われていた。二人になった瞬間、「女性陣」というラベルに、入れ替わった。
これは、進歩だろうか、後退だろうか。
分からない。たぶん、両方、少しずつ。
明日も、母親からの電話は、佐藤先生を指名する。
私の引き出しのナプキンも、補充する。
所長は、たぶん、また「女性陣の意見ね」と笑って言う。
私は、まだ、辞めない。
辞めない、ということを、毎日、自分に、ちょっと、確認する。
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本作は『一人だけ、では』の半年あとの続編・第一稿。視点が佐藤紗英子から、新しく入った高橋瑞希(25歳、入社1ヶ月、前職は別の中小塾チェーンで新卒3年)に切り替わる。所長の朝礼「これで、女性が二人になりました」、母親電話「佐藤先生をお願いします」(高橋は指名されない)、教材会議で高橋発言→所長「あー、女性陣の意見ね」(一括処理)、佐藤さんが瑞希のデスクの引き出しにナプキンを入れる「二倍、助かる」、駅前カフェで佐藤「半分の人数で、半分の重さじゃなかった」、家に帰る道で「私が辞めれば、佐藤先生はまた一人に戻る」と瑞希が考える(佐藤の10年前と同じループ)。核フレーズ「組織の弱さは、二人で支えられている。二人で支えられている、ということ自体が、まだ、組織の弱さだった」。一人だった頃は「佐藤さん」という固有名、二人になった瞬間「女性陣」というラベルに入れ替わった——これが進歩か後退か、両方少しずつ。