カゲツモエ(44歳・登り窯の窯焚き22年)
三日三晩焚き終えた窯は、すぐには開けられない。冷ますのだ。焚き終わりから窯出しまで、数日待つ。早く開けたい気持ちと、毎回戦うことになる。窯詰めで焼き上がりの半分を決め、窯焚きで残りを炎に渡したなら、窯出しは、その答え合わせの朝なのだろう。
冷ましの数日は、いちばん長い。火を止めても、窯のなかはまだ数百度ある。慌てて口を開ければ、外の冷たい空気が流れ込み、急に縮んだ器が、ぴしりと割れる。貫入ならまだいい。胴がまっぷたつに走ることもある。だから待つ。窯の側面に手を当て、煉瓦の熱がじわじわ抜けていくのを、ただ確かめながら待つ。三日三晩焚いて、それから三日、何もせずに待つというのは、なかなかの修行のような気もする。
頃合いを見て、目張りした焚き口の煉瓦を、一つずつ外していく。最後の一個を抜くと、窯のなかから、ふっと温かい空気が顔にかかる。まだ温気が残っている。焚いていたころの、あの千二百度の名残のような、やわらかい温かさだ。窯の神様が、よく焚いたな、と息を吐いてくれているのかもしれない。私はその温気を頬に受けながら、暗い窯の口を、しばらく見ている。
取り出しは、詰めた順の逆をたどる。詰めるときは奥から手前へ。出すときは手前から奥へ。手前の棚に手を入れ、いちばん最初に置いた器から、順に外へ運び出していく。一つ持つたびに、ああこれはあの位置だ、と窯詰めの記憶がよみがえる。あのとき水平を確かめながら渡した棚板、中腰で奥へ押し込んだ壺。詰めた手の記憶と、いま出てくる器の答えとを、一つずつ照らし合わせていく。
灰の景色は、当たり外れがある。火前の一等地——炎がまっすぐ当たる、灰の降る位置。今回そこに置いた徳利を抜くと、肩から胴へ、緑のガラス質の自然釉がとろりと流れ落ちていた。狙いどおりだ。けれどその隣、同じように灰を期待した皿には、なぜか乗らなかった。素地の色のまま、つるりとしている。灰がどこに落ちて何色に溶けるかは、二十二年見てきて、いまも半分は読めない。窯は、気まぐれだ。当たった景色も外れた景色も、その窯の気まぐれの、一回きりの記録なのだ。
運び出した器は、工房の土間で三つの山に分けていく。売り物になる山。これは手元で使う自家用の山。そして、割る山。窯出しのいちばん辛いところだ。胴に大きく走った割れ、傾いて歪んだ器、ベタ付きで高台の欠けたもの。三日三晩焚いた末に、自分の手で叩き割る。けれど欠点のある器を世に出すわけにはいかない。仕分けながら、これはここがいけない、これはあと少しだった、と一つずつ品評していく。割る山がいちばん小さい朝は、いい朝なのだと思う。
器を出し終えた空の窯を、今度は内側から点検する。焚くたびに、窯は傷む。高温にさらされた天井の煉瓦が、薄く剝がれ落ちている。火前の壁に、ひびが一本、前より延びている。私は手帳に、傷んだ場所を書きつけていく。次に焚くまでに、ここを補修する。窯は器を焼く道具であると同時に、焚くたびにこちらが世話をしてやらねばならない、生き物のようなものでもあるのだ。
窯出しの朝、工房には人だかりができる。この窯には、私の器だけでなく、工房の作り手たちの器も入っている。みな自分の器を探しに来る。出てきた器を手に取り、灰の乗りを確かめ、ため息をついたり、笑ったり。誰かの一等地の徳利を、別の誰かが羨ましそうに眺めている。私はその輪のなかで、淡々と器を仕分けていく。窯出しの朝の、あの少しざわついた空気が、私は嫌いではない。
仕分けが終わり、人が引けた夕方、私はもう一度、空の窯の前に立つ。さっき手帳に書いた補修箇所を見ながら、次はどう詰めようか、と考えはじめている。今回外れた、あの皿の位置。次はあそこに何を置くか。答え合わせが終わった夕方には、もう次の窯詰めの構想が始まっている。窯焚きの全ては、結局この窯出しの朝の、答え合わせのためにあるのだ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。