カゲヤマソウタ(54歳・刃物鍛冶32年)
包丁には、その家で過ごした歳月が静かに宿っている。研ぎ直しに持ち込まれた一本を手に取るたび、私はその刃に刻まれた家庭の歴史に触れているような気持ちになる。鋼は、使われ方を語りはじめるのだ。
鍛冶屋には、研ぎ直しの客が来る。私が打って売った包丁が、何年かして里帰りしてくる。十年使われた一本を見れば、その家の台所がだいたい分かるように思う。よく使われた刃は、刃元から切っ先までの減り方に偏りが出る。手前ばかりが落ちて中ほどが残っていれば、その家の主は刃元で押し切る癖の人だ。包丁は、使い手の癖を覚えているのかもしれない。
欠けの位置にも、台所が出る。切っ先のすぐ下に小さな欠けが並んでいれば、たいてい凍ったものに当てている。冷凍の魚か、凍らせた肉のかたまりか。柔らかいものしか切らない刃は、いつまでも欠けない。欠けは、その家の冷凍庫の事情まで語っているようで、研ぎながら少し笑ってしまうこともある。
他所の包丁の研ぎも受ける。私が打ったものではない、量販店で買ったらしい一本も持ち込まれる。手に取ると、鋼の薄さがすぐに分かる。これは長くは保たないな、と内心で思う。けれど、思うだけだ。客にとっては大事な一本に違いないのだから、私は自分が打った刃と同じだけ丁寧に研ぐ。職人が刃を選り好みしては、その時点で職人ではなくなる気がする。
砥石は番手の階段を上がっていく。荒砥で形を直し、中砥で面を整え、仕上げ砥で刃先を起こす。番手が上がるごとに、出る音が変わる。荒砥はざらりと低く、仕上げ砥は絹を撫でるように高い。研ぎ上がりに指の腹をそっと当てて、刃が吸い付く感触が返ってきたら、もういい。長い年月をかけて、この感触だけは体が覚えてくれた。
「研いでもらったら、切れすぎて怖い」と苦情のように言ってくる客がいる。トマトに刃を当てただけで沈んでいく、指を切りそうで落ち着かない、と。けれど、その顔はたいてい嬉しそうだ。よく切れる刃は、力を入れずに済むから、かえって安全なのだと言っても、なかなか信じてもらえない。怖い、と言いながら次もまた持ってくる。あれは、苦情の形をした褒め言葉なのだろうと思う。
研ぎながら、刃こぼれの原因を推理するのは、私のひそかな楽しみだ。まな板が硬い樹脂なら、刃先が細かく丸くなる。ガラスや陶器の皿の上で切れば、ぱきりと欠ける。洗ったあと濡れたまま重ねていれば、刃に薄い錆が浮く。流しの脇に置きっぱなしなのか、鞘に納めて棚にしまっているのか——それも刃の表情でなんとなく分かる。包丁は、使われ方を覚えているのだ。
そして、いつからか研ぎ直しに来なくなった客の包丁を、夜ふと思い出すことがある。あの片減りの一本は、いまもあの台所で使われているだろうか。それとも新しいのに買い替えたか、あるいは、もう料理そのものをやめてしまったか。刃の行方は、私には分からない。分からないまま、私はまた次の一本を砥石に乗せる。
結局のところ、私は包丁を研いでいるようで、その家の暮らしを読んでいるのだと思う。片減りも、欠けも、錆も、すべてはそこで営まれた食卓の記録だ。鋼は、使われ方を覚えている。そして私は、その記録を読める数少ない人間の一人なのかもしれない。研ぎ直しの客が来るかぎり、私はその物語を読み続けるのだろう。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。