ワタナベの妻(名古屋・主婦・匿名希望。夫ワタナベ65歳、成人した娘あり。娘の付き合いで好きになり、いつしか自分が一番熱心に)
扇風機を出すついでに、簞笥の上のうちわを下ろしました。娘が高校生のころ、ライブの帰りにくれたものです。蛍光のピンクで、持ち手のところはもう、握り皺で白く粉をふいています。端が一度折れて、私がセロハンテープで留めた跡もそのままです。会場では胸の高さで小さく振るのが娘の流儀で、私が大きく振ったら、お母さんそれは振りすぎ、と笑われました。
娘が家を出てから、電話はめっきり減りました。かけても、用件が済むとすぐに切れます。「元気」「うん」「ご飯はちゃんと食べてるの」「食べてるよ」。それで終わってしまう。けれど、あの人たちの話だけは続くのです。「今度のドラマ見た?」と私が言えば、「見た見た、あの役よかったよね」と、娘の声が少しだけ高くなる。その高さを聞きたくて、私は番組表を確かめています。
はじめは、娘に話を合わせるつもりでした。録画の予約を覚えたのも、出演する番組を娘より早く知りたかったからです。それがいつの間にか、娘より私のほうが詳しくなっていました。新しい曲が出た朝、私のほうから娘にメッセージを送る。既読がつくのを待つのが、その日のいちばんの楽しみになっていることは、娘には言いません。
結婚のことも、仕事のことも、こちらからは聞かないようにしています。一度、よかれと思って言った一言で、娘が黙ってしまったことがあるからです。あれ以来、私は娘に聞いていいことと、いけないことの境目を、いつも探っています。あの人たちの話には、その境目がありませんでした。誰を傷つけることもなく、いくらでも続けられる話でした。
解散が決まったと、娘のほうから電話がありました。「お母さん、聞いた?」その声で、用件のない電話だ、とすぐにわかりました。久しぶりに、長く話しました。話しながら、私は別のことを考えていました。この話題が、もうすぐ私たちの手元からなくなる。そのとき娘は、何を口実に、私に電話をかけてくるのだろう、と。
うちわは、また簞笥の上に戻しました。捨てればいいのに、と自分でも思います。でも、これがなくなると、娘がライブの帰りに、わざわざ私の分まで買ってきてくれた日のことまで、どこかへ行ってしまう気がするのです。次に娘から電話がかかってくるのは、いつでしょう。かかってこなければ、こちらからかけてもいいものか、私はまだ決めかねています。