ワタナベ(65歳・元会社員・名古屋。消えゆく文化の考古学。妻はワタナベの妻)
居間の隅に、うちわが一本立てかけてある。妻のものだ。私は二十年、それが誰の顔なのか、正面から確かめたことがない。蛍光色の派手なそれが視界に入るたび、正直に言えば、少し邪魔だと思ってきた。捨てろとは言わない。言えば角が立つ。だが、好きになったこともない。
妻の二十年は、私には物の増減としてだけ見えていた。テレビ台の引き出しが、銀色の円盤で二段とも埋まったこと。録画したディスクの背に、妻の字で日付と番号が几帳面に振ってあること。年に一度ほど、見慣れない箱が届き、中身は私には用途のわからない小物だったこと。私はそれらを、掃除のときに右から左へ動かすだけで、一度も開けて見たことはない。
妻がテレビの前に座る夜は、声でわかる。笑い方が、私に向けるものとは少し違う。ときどき、画面に向かって何か言っている。私は新聞を持ったまま、その背中を見ている。理解しようと思ったことはない。退屈だと思ったことなら、何度もある。長く連れ添うというのは、相手の熱を、その対象まで分かち合うことではないらしい。
解散の報は、朝刊の片隅に小さく載っていた。先に活動を休むと言っていた人たちが、今度は終いにするのだという。妻は向かいで、同じ記事を読んでいた。表情は変わらない。ただ、味噌汁の椀へ伸ばしかけた手が、一度止まった。それだけのことだ。私は自分の面を読み続けるふりをして、その手元を見ていた。
二十年、私が見てきたのは、彼らではない。彼らを好きでいる妻が、家の中に少しずつ残していった物の方だ。一枚のうちわ、円盤の山、几帳面な妻の字。それを出土品のように遠くから眺めてきた——と言えば聞こえはいいが、本当は、面倒で、少し馬鹿にして、それでも捨てられずにきた、というだけのことだ。
昨日、妻が出かけたあと、私はそのうちわを手に取ってみた。持ち手が、汗の跡だろうか、白くなっている。表の顔は、やはり私の知らない若い男たちだった。私はそれを、元あった隅に、同じ角度で立て直した。妻が、誰かが触ったと気づかないように。