ワタナベ(65歳・元会社員・名古屋。消えゆく文化の考古学。妻はワタナベの妻)
居間の片隅に、一本のうちわが立てかけてある。それは、とある五人組の国民的アイドルグループの顔写真が印刷された、ありふれた応援グッズだ。妻がそれを手にして、もう二十年の歳月が流れた。私はその間、一度として彼らの音楽に熱狂したことも、その歌声に耳を傾けたこともない。しかし、その情熱の痕跡だけは、確かにこの家の中に層をなして堆積していった。
妻の二十年は、我が家における奇妙な地層として顕在化した。初回限定盤と銘打たれたCDやDVDの山。テレビ番組を録画したVHSからデジタルへと移行したメディアの変遷は、技術の進歩と並行して、そのアイドルの活動期間を如実に物語る。時には、メンバーの誕生日を祝うという名目で、奇妙なキャラクターグッズが増殖した。私の興味は、それらのモノが家の中で占める物理的な空間、そしてその増減のパターンに向けられた。
私は、妻の情熱の対象に感銘を受けたことはない。だが、その熱量が生活の中に持ち込むさざ波を、静かに観察してきた。彼女がリビングで歌番組に釘付けになり、時には声を上げて笑い、時には涙ぐむ姿。それは、私という観測者にとっては、一種の自然現象にも似ていた。名古屋の冬の朝、ひっそりと冷え込む空気の中で、彼女の熱情は奇妙なコントラストを生んでいた。
その五人組は、確かに一時代を築いた。テレビを開けば必ず彼らの顔を目にする。CMでは彼らの笑顔が商品の魅力を語り、街を歩けばポスターが視線を引いた。世間の流行が移ろいゆく中、妻の関心だけは微動だにしなかった。ある意味で、それは堅牢な信念の表れであり、考古学者が過去の遺構を静かに掘り起こすように、私はその持続性を淡々と見つめていた。
そしてある日、新聞の片隅に、彼らの活動休止の報が載った。朝食の席で、妻はそれを読んでいた。表情はほとんど変わらない。しかし、その指先が、記事の活字をなぞるようにわずかに震えたのを私は見逃さなかった。長年培ってきた情熱の容れ物が、突如としてその役割を終えることを告げられた瞬間の、微細な動揺。私は新聞を読み続けるふりをして、その静かな変化を観察した。
彼女の二十年は、その「うちわ」一枚に始まり、膨大なメディアの山を経て、ひとつの時代が閉じゆく様を見届けた。私にとってそれは、ある文化が隆盛し、そして収束する過程を、極めて個人的な視点から記録する作業であった。
好きなものを持つ人の隣にいる、とは、どのような経験なのだろうか。私は彼らの音楽を理解せず、彼らの存在に共鳴することもなかった。しかし、妻の情熱が形を変えて家の中に築き上げたモノの地層——それだけは、確かに私の視界に存在し続けた。それは、情熱そのものではなく、情熱が放つ熱の余波、あるいはその副産物である。私はそれを、まるで出土品のように扱ってきた。
人は、自分のものでない情熱の隣で、一生を過ごすこともできるのだ。その情熱がもたらす喜びも悲しみも、直接的に共有することなく。しかし、その痕跡を、地層として日々積み重ねられる物証として、観察し、記録することは可能である。それは、個人の内なる世界と、それに隣接する外部の世界との、静かな対話に他ならない。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。