カミデフウカ(28歳・ペットトリマー6年)
春の柔らかな光が差し込むサロンに、ふわふわの子犬がやってきた。生後四か月のトイプードル。「初めてのトリミングなんです」と、電話の予約のときから飼い主さんは少し緊張した声だった。あどけない瞳でこちらを見上げる小さな体は、見ているだけで心が和むような愛らしさで、思わず頬がゆるんでしまう。今日が、この子のデビューの日だ。
初めての子の予約には、ふつうの倍の枠を取る。といっても、仕上げに倍かけるのではない。むしろ逆で、刈る量を減らして、待つ時間を増やすための枠だ。デビューの日の目的は、きれいにすることではない。「ここは怖くない」と体に覚えさせること、ただそれだけだと思う。最初の一回で怖い思いをした犬は、一生サロンが苦手になる。だから今日は、仕上がりより、次もまた来られる経験にすることのほうが大事なのだ。
音から慣れさせる。バリカンは、いきなり体に当てない。まず電源を入れて、床に置いたまま、離れたところで回す音だけを聞かせる。子犬が音のほうを見ても近づいてこなければ、少し距離を詰める。それから、刃を当てずに、本体の背中を子犬の肩にそっと触れさせて、振動だけを伝える。音、振動、そして最後にようやく刃。順番を飛ばすと、子犬は音と痛みを結びつけて覚えてしまうのかもしれない。
初めての爪切りの、一本目。後ろ足の、いちばん端の爪を選ぶ。そこがいちばん子犬の視界から遠くて、嫌がりにくいからだ。足を持ち上げると、子犬の足は固いまま宙で踏ん張った。私はニッパーを当てて、ほんの先だけ、白い透明な部分だけを切る。パチン、と小さな音がして、一本が落ちる。子犬はきょとんとしている。痛くなかった、という顔だ。その顔が見られたら、一本目は成功なのだと思う。
残りの爪は、今日は切らない。一本切れて、子犬が「これは痛くないこと」だと覚えてくれたなら、それで今日のぶんは終わりにする。欲張って全部切ろうとして、途中で嫌がられたら、せっかくの一本目が台無しになる。できなかった工程は、次回に回す。爪は前足が四本、後ろ足が四本。今日は一本。次は二本。その子のペースで、少しずつ増やしていけばいい。
迎えに来た飼い主さんに、私は正直に伝える。「今日は、全部はできませんでした」。爪は一本だけ、顔まわりも少し整えただけ、足裏は触っていない。けれど、それは失敗ではない。できなかったことは、次回の設計図なのだ。私は引き継ぎメモに書く。「爪・後ろ右端のみ。バリカンは音と振動まで。次回・前足の爪と、バリカン肩から」。このメモが、二回目のこの子の地図になる。
二回目に来たとき、子犬の体は少し変わっていた。台に乗せても、前回ほど固くならない。音にも、もう驚かない。バリカンを肩に当てると、最初はびくっとしたけれど、すぐに諦めたように力を抜いた。三回目には、爪を四本まで切らせてくれた。回を重ねるごとに、固かった体から、少しずつ力が抜けていく。預けることを、この子は学んでいるのだと思う。
予約表を開くと、両端にある二つの日のことを思う。いちばん最後のページには、十五歳のシニア犬の名前。いちばん新しいページには、この子犬の名前。卒業していく子と、デビューする子。サロンの予約表は、犬たちの一生を、両端で受け止めている。終わっていく体と、始まっていく体が、同じ一冊の表のなかに並んでいる。
初めての子に、私ができるのは多くない。きれいにすることではなく、怖くないと教えること。全部やることではなく、次につなぐこと。できなかったことは、失敗ではなく次回への設計図なのだ。一本の爪から始まって、その子の一生ぶんのトリミングが、ここから始まっていく。小さな体が、初めての台から、得意げな顔で降りていった。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。